作文練習

真理を記載しています。

好きな小説、憧れの人物

私にも憧れの人物がいたことに最近気付いた。

伊坂幸太郎の小説「チルドレン」の中の登場人物の陣内という人間*1だ。この小説はいくつかの章に分かれていて、それぞれ陣内の友人が語り手として登場し、陣内との物語を展開していくというもので、陣内はこの小説の主人公と言って差し支えないだろう。陣内は破天荒なキャラクターとして描かれており、一章から銀行強盗の人質という状況下で唐突に歌を唄ったり、人質からの解放のどさくさに紛れて銀行の金をせしめたりしている。この辺りもかなり魅力的なのだが、私が憧れているのは少し違う側面だ。

一番印象的なのはこんなエピソードだ。

陣内の友人に永瀬という生まれつき盲目の者がいる。ある日、陣内は手に五千円札を握りしめた永瀬と出会う。その五千円札は、数分前に通りすがりの人から「何も言わずに受け取ってくれ」と渡されたものだった。永瀬は盲目であるという理由で哀れまれるべき存在であると見ず知らずの人間に思われ、親切心やら同情心から金を握らされたのだ。永瀬としてはこのようなことは日常茶飯事で、最早憤りもやるせなさも抱くような段階は通り過ぎ、諦観していたのだが、陣内は違った。陣内は五千円札を握りしめた永瀬を見て憤慨した。陣内の心情を察した永瀬は、「相手も悪気がある訳ではないのだから」と宥めようとするが、陣内の怒りの矛先は予想外のところにあった。「なんでお前だけ金が貰えて俺が貰えねえんだよ」と陣内が言う。「きっと僕が盲目だからだよ」と永瀬は返す。「そんなの関係ないだろ。なんでお前だけ特別扱いなんだよ」と言いながら陣内は永瀬に金を渡した人間を探しに行く。自分も何とか金を貰えないかと考えて。

破天荒と、先程は述べたが言い方を変えれば常識が欠落しているような人間なのだ。そして、常識と共にステレオタイプや偏見のようなものも一緒に欠落している。ステレオタイプ的なものに当て嵌められて語られることを酷く嫌っていた私は、だからきっと陣内に憧れていた。そのようなしがらみに囚われない人間であろうとしてきたのだ。

私は学生時代塾講師のバイトをしていた。塾講師という仕事上、当然子供と関わる機会が多いのだが、私は無意識の陣内への憧れから「誰に対しても対等に接する」という信条とそこから派生した「子供を子供扱いしない」という信条を持っていた。これは理想的には子供を大人と同様に扱うことで達成されるべきであるが、自分自身が子供目線になるという方向にも進み始めてしまった。いずれにせよ私は他の講師たちと同じように仕事をすることは出来ず、則ち生徒・保護者・社員たちのニーズに応えられない人間であった。しかし、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもので、ごく一部の生徒が私を求めてくれており、そのおかげもあって何とかバイト自体は続けられていた。きっとその生徒たちも、大人が子供を教え導くというロールプレイに参加することに嫌気が差しているような人々で、つまりは子供の頃の私の同類だったのだろうと思う。

実は陣内も子供と関わる仕事をしている。家裁調査官という非行に走った子供たちの更生の手助けをするような仕事だ。陣内はやはり子供と同じ視線に立ち、時には子供と一緒になって保護者へ暴言を吐いたりするが、それが結果的に功を奏していく。勿論かなり危なっかしくて、こんなんで上手くいくのは小説だけだろという感じもしてしまうが、それほど狭い需要を満たし、一般的な人間だけでは対処できなかった問題を陣内は解決しているとも言える。そして私も同様に。

しかし忘れてはいけないのは、陣内はどう考えても社会不適合者であり、憧れる対象としては不適格であり、事実私もそのせいで相当やり辛い塾講師時代を送ったとも言える。陣内への憧れを自覚したからには脱却して真人間になっていこうと思うのであった。

*1:この文章の主題から、性別や年齢を断定するような表現は必要でない限りこの後も同様に避けている。しかし、日本語の定型的な表現上こういうときは「~という男だ」のように述べるのがかなり強く自然であり、それ以外の表現は書いていてかなり不自然に感じられた。三人称代名詞も性別を限定してしまうので今回は使用を避けたがこれもやはり不自然だ。