作文練習

真理を記載しています。

学生生活の終わりに寄せて

まずは賞賛しよう。私自身を。

今回私は自身の学生生活の終わりに際しての文章を自主的に作成しようと思い立ち、筆を執っているのだ。

最近は書く内容が思いついたときにだけ執筆するスタイルを取っていたので、時の流れに合わせて作文しようというのは中々偉い。

 

私は今日、長く続いた学生生活に終わりを告げ、明日から所謂社会人というものになって労働者生活を始める。

私は長らく労働者生活を恐れ、遠ざけていた。学生の時分には、数年おきに卒業という節目が存在しており、終わりの次には新たな始まりが訪れるものだが、労働者として働き始めたら働き終わる頃には人生の終わり間際となっており、しかもその間は毎日朝から晩まで労働に費やし、実質的に自由な人生の時間などほんの僅かなものになってしまう。

つまり、学生を終えた時点で人生も殆ど終わったようなものだ、と考えていた。勿論このような考えは労働というものから遠く距離を置いていて、更には終身雇用制度のような旧態依然の常識も混ざりこんでいるものだった。

このような考え方が転換したのは実はつい最近のことで、それまでは可能な限り学生生活を引き延ばした方が自身の望みに適っていると考えていた。しかし、仮に修士や博士と進学していって学生としての身分を維持したとしても、それらの人間がやることは賃金労働者である大学教員の手先となって働くことで、それでいて労働の対価としての報酬も碌にないという、労働の回避という私の元々の目的が達成されない上に金もないという状況に陥るだけと気付き、学生生活を終わらせることに納得した。

 

しかしそれは労働を開始する理由にはならない。

先に就職していった先輩や友人たちの様子を見たり、就職活動を行ったりすることで(近年の)労働者生活が思ったよりも悪くないものでありそうだと気付いた、というのもあるが恐らくそれは副次的な理由になるのだろう。

主たる理由は世間体と判断意欲の低さと言える。

 

世間体、といっても私は抑々社会にも世界にも関心のある性質ではない。かといって孤独に生きていくことも出来ない人間だ。つまり、私の世界たる友人たち、それらからの評価を気にしている。友人たちに見捨てられない様に、友人たちに認められる様な*1人間であるために、取り敢えず周りと同じように労働者になっておこうという思考がある。そしてこの「取り敢えず」という部分が二つ目に繋がる。

判断意欲の低さ、というのは自分自身の社会生活にもあまり興味がなく、当たり障りのない分かりやすい人生経路を歩もうということだ。つまり、例えば必ずしも被雇用者として労働しなくても金や名声を得る手段はいくらでもあるのだろうが、そういったマイナーな経路*2を歩んでいこうと思えるほどの活力が私にはないのだ。人と同じことをやっていれば、100点にはならなくても0点にもならないだろうと思っている。

 

そんな訳で私は労働者となる。

今後皆が仕事を辞め出したら私も辞めるし、投資を始めたら始めるし、宗教にハマったら私もハマる*3

そう思っていてくれ。

*1:本当は自身に投影された友人たちの虚像、つまり自分自身からの承認を得れる様な

*2:これも決して人類全体で見た時、ではなく自分の友人たちを見渡して、という話なので囲まれている人間次第では歩みうる経路だったのかもしれない

*3:実は趣味だけ例外的で、あまり分かりやすく他人の趣味に流されたことがない。そしてこれこそが私の希求する自由な時間を費やすべきものなのだが、何故これが例外なのかについて考えるのはもう面倒くさいのでやめる