作文練習

真理を記載しています。

幸運なことに私は物心がついてから一度も葬式というものに参加したことがなく、故に喪服というものを持っていなかった。しかし人というのは突然死ぬもので、そして直後に葬式が執り行われることを考えておくと適当なものを用意しておいても良いだろうということで、喪服を購入してきた。ユニクロで一つずつ喪服の部品を集めていると軒並み黒、黒、黒ばかりで面白くなってきてしまう。これだけ黒い服装をしていたらFF15の主人公になってしまうのではないか。そもそも仏具とか袈裟とか結構カラフルなのはええんかい、という気分になる。仏教式の葬式で参列者が洋装なのもウケる。理詰めで考えると現代の大衆化された葬式は突っ込みどころ満載な感じもあるのだが、しかし葬式は儀式だからそれで良いのだろうとも思う。

子供の頃、人の遺骨は墓で永遠に埋葬されていくものだと勘違いしていた。実際には暫くして墓参りに来る人間がいなくなったりすると掘り起こされて個別の墓のない適当な場所へ再び葬られるらしい。墓の役割が最早存在もしていない死者の安寧のためなどではなく、生者である知人が死者の死と向き合うためであると考えれば至極当然で、その死を悼む人すら死んでしまったような死者の骨がどうなっていようと生者の知ったことではない。

私自身、死後の魂のような話を全く信じていないクチであるのでこのような扱いになっているのも納得なのであるが、しかし一方で自分が死後そのような扱いを受けることを想像するとやや不愉快に思う*1。それなら適当に散骨しておいた方がマシに思えてしまう。しかしそれで私の死を悼む者が困るのであれば、恐らく帰依してもない寺の中に墓を建てた方が良いのだろう*2。死者の身体は生者の慰めのためにあるのだから。

以前、私の親が「自分が死んだら葬式など必要ない」と言っていたが、残念ながらそれは些か身勝手*3で、親族のような近しい人間はともかく、葬式でもないと死を受け容れるタイミングのない知人に対して酷な仕打ちとなってしまうのだ。たとえ日頃一切宗教儀礼を行っていないとしても、教義に於ける死後の世界の扱いを知らないとしても、適当な宗教に則った適当な葬式を開いて、見ず知らずの僧侶に念仏を唱えさせて、何となく死者を悼んでるっぽい黒色の服に身を包んだ人間たちが参列している状況があることで、理性を超えて死が受容される。内実がなくとも形式が役割を果たすという意味で、現代の葬式はより一層儀式的な儀式なのだろう。

*1:これは丁度私が人間以外の生物に感情を認めていないために動物愛護など無駄であると考えている一方で、ペットとして飼われている動物を憐れんでしまうのと似ている。

*2:自身の死後に於いて「良い」も何もないが。

*3:感情的には自身についての葬式の開催を決めるのは当人の権利で、身勝手などないようにも思えるが、理性的に考えるとやはり生者の為の儀式たる葬式で死者の意見は二の次になってしまう