作文練習

真理を記載しています。

真面目

生来の真面目さを疎ましく思っている。私が真面目であって得するのは私ではなく私以外の人間なのだ。

 

私は遅刻をしない。集合時刻の10分前には確実に着くように更に10分前に到着するように出発してしまう。酷い時は1時間前に到着してしまう。

しかし他人は遅刻をする。私が20分前に着いていようと20分遅刻して来る。

その40分間、私は無為な時間を過ごす。これが許せない。

そして遅刻する人間は次回の集合にも次々回の集合にも遅刻して来る。改善の見込みはない。その上遅刻を責める人間を狭量とさえ思っている。この傍若無人さ。

それ故に私は許すしかない。

 

幼少期から他人に迷惑をかけないようにと教育されてきた。ルールに従い、マナーを守り、常識の範囲内の行動をとってきた。しかしそれで得をするのはルールを破る人間の方なのだ。

謂わばこれは不特定多数の人間による囚人のジレンマで、仮に全員が協力すれば全体としての効用は大きいが、現実にそんなことは生じず、協力を選択した者は裏切った者の養分になるだけなのだ。無邪気にルールを盲信している馬鹿を狡猾な悪人が利用していくのが人間社会というものなのだろう。

 

だから私は、幼少期を脱した頃から自身を悪の道へと唆してきた。毎回時間通りに集合するのをやめて、時折5分程度遅刻するようにした。しかしその度に私の根幹にある善性が悲鳴をあげるのだ。

 

大学一年生の頃、私はサークルに入った。週に何回か会合を開いて和気藹々と活動をするようなものだったが、時に目を覆いたくなるような醜悪な光景が顕現するのだった。

それは構成員がサークルをやめる時、やめる人間は必ず申し訳なさそうな様子で、サークルに対して謝罪しながらやめていくのだ。しかもその前に近しい人間に相談をするところから始めて、少しずつ許しを請いながら最終的に全員からの許しを得てやめていくのだ。

サークルをやめたらそこの人間と関わることなど二度とないのに、何故にそこまでするのだろうか。

その答えは、サークル構成員のほぼ全員が善人で、しかも悪に対する免疫がないということだ。

彼らは、サークルをやめるという他人に迷惑をかける行為を、裏切りを、受け容れることが出来ない。やめる人間自身も、その行為に対して強い罪悪感を抱いて、それを払拭するために謝罪を行う。罪を赦されて初めて彼らは新たな一歩を踏み出せるのだ。そしてまた人に迷惑をかけないように生きていくのだろう。

私はこの光景を悍ましく思っていた。それもあって、私自身もサークル加入から二年ほどしてやめる決意をした。それなりに重要な役職を任されていたが、私はある日を境に突然会合に参加するのをやめた。

残された人間たちはそれなりに面倒くさいことになっただろうが、私は楽になった。この傍若無人さこそが、私の求めていたものだ。

しかし私も元を糺せば善人で、きちんとサークル代表にやめる連絡を入れたり、役職に関する引継ぎ事項を言い残したりしてしまった。加えてサークルをやめてから一か月近く、私は罪悪感に苛まれた。

私は心から悪人にはなれなかった。きっとやめた理由には同族嫌悪も含まれていたのだろう。

 

結局、私は他人に迷惑をかけた上で、そのことを勝手に気に病んでいるような人間になってしまった。将来的に私の中心に巣食う真面目な私を追い出すことが出来るのか、それはまだ分からない。