作文練習

真理を記載しています。

非社会的労働者

昨夜は悪夢に魘された。

研究室で実験している夢であった。

 

未だに私は大学で研究をしていた日々を苦々しく思っており、だからこそ学生生活に終止符を打つという節目を寿いだのだと思う。先程その頃の自分の文章を読み返して、そのような心境であったことが思い出された。

 

machitomu.hatenablog.com

 

労働者として過ごすことは、正直研究者として過ごしていた時期よりは心穏やかで、まだ夢に見るような経験をしたことはない。

一方でやや辟易している面もある。

 

最近自覚したのだが、私が幸せを感じやすいのは自分の感情が高まっている時というよりは寧ろ平静としている時で、特にゲームしたり動画見たり漫画読んだりで思考を回さずに時間を溶かしているようなのが余暇の大部分を占めていないと辛くなる。

人と会って何かするのも時々は欲しいが、本当に時々で良い。

後は一人で何かに没頭して時間を忘れたい。

 

労働者として生きているとそういった時間がかなり少なくなる。勤務時間に人と関わらなければならない分、余計に孤独を欲している。

孤独を希いながら平日を過ごし、平日の到来を恐れながら休日を溶かしている。

この生活にどれほどの持続性があるのか、私にも分からない・

 

社会人とはよく言ったもので、どうやら私は継続的に社会で労働していくことが難しいのかもしれない。

 

思考の形状

リンゴを思い浮かべてみてほしい。

 

私がリンゴを思い浮かべるとき、なんとなくその色や形が定まっている。やろうと思えば嚙んだ時の歯応えや、味なんかも想像することが出来る。

例えば黒くて角ばった自分の身長よりも大きい物体を持ってこられて、「あなたの想像したリンゴはこれですか」と尋ねられたら、相当強い自信をもって「違います」と答えられるだろう。

或いはフニャフニャで噛んだらとめどなく苦い液体が溢れ出てくるような物体を持ってこられて同じことを尋ねられても、やはり「違います」と答えられるだろう。

 

これをどんどんリンゴ様の物体に近づけていったらどうなるだろう。

例えば赤くて真球に近いような物体を持ってこられたら、「形が違う」と判断できるだろう。青リンゴを持ってこられたら「色が違う」と判断できるだろう。

そして遂には私が「リンゴ」としか言えないような正しくリンゴが持ってこられる。しかしそれは私が最初に想定していたリンゴと必ずしも完全に一致していない。色や形が僅かに異なっている。きっと歯ごたえも異なるのだろう。

しかし私はどのようなリンゴを持ってこられようとも想像と完全に一致していると判断することは出来ないのではないだろうか。というのもそもそも当初想定していたリンゴというものがとても曖昧で、裏側がどうなっているかまで想像が及んでいなかったり、内部の種の位置がどうなっているかなんて気にしてもいない。

 

では一体私は何を想像していたのだろうか。

現実のどのリンゴと一致するわけでもなければ、今まで私がリンゴとして認識してきたものの平均値や中央値的なものでもない(そうであれば種は消失していない)。

 

敢えて最初から抽象的な事物を思い浮かべてみよう。

例えば三角形。

適当に思い浮かべると二等辺三角形っぽくなる。黒の三本の線分で構成されていて、面の部分は白い。しかし本当に真っ白だろうか、と言われると自信を持てない。#FFFFFFだろうか*1

線の太さ、辺の長さ、厚み、なんてどのような値を設定したとしてもしっくりこない気がする*2

 

以前の記事における想像不可能性みたいなところはこういう例との類推で理解できる*3

 

machitomu.hatenablog.com

 

*1:こう言うと色覚が鋭敏な人なら少なくとも色に関しては一意に定められると言いたくなる。私自身がどのような側面に対してもそのような鋭敏な感覚を持っていないので自信はないが、しかしそれは違うのではないかという気がする。

*2:勿論数学的な三角形の定義にこのようなアスペクトは不要だが、ここではどのようなものが現前したら納得できるかを考えている

*3:このような考えを突き詰めていくと、「私の思考はどのような現実事象にも対応していない」「私の言語表現は現実世界に届かず、空想世界で閉じてしまっている」と言いたくなる。そして同時に「そんな訳がない」とも言いたくなる。この図式は所謂「ツルツルした氷」と「ザラザラした大地」の比喩から捉えることも出来るかもしれない。

思考の声

私の思考は声として聞こえる。

 

たとえば本を読む時、私は眼で捉えた文章を頭の中で「音読」している。自分自身に読み聞かせてあげることで文章を頭に入れている。それ以外の方法を知らない。

同様にして一人で何かを考える時も、考えを声にして頭の中で響かせる。それ以外の方法で、たとえば文字を思い浮かべて思考することというのは出来そうにもない。

 

1つ気になるのはこれが一体誰の声なのか、ということだ。あまり音に関して繊細な人間でないので断言は出来ないが、この脳内の声は自分自身の肉声とは違ったものに思える。かといって他の誰という訳でもないし、脳内の声を出力して照合させることも出来ない。

或いは今時合成音声を使って様々な声を生成していけばいずれはこの声に近いものを生み出せるのかもしれないが、どうにもそういう代物とも思えない。耳で聞いた途端に逃げていく気がする。

 

そもそも一定の声色なのかすら定かでない。何なら小説を読んでいる時などは人物によって僅かに声色を変えているような気がする。それらの声も誰を参照しているのか分からない。

 

そしてこれに一般性はあるのだろうか。

私以外の人々は自身の思考の声を聞いているのだろうか。

学生生活の終わりに寄せて

まずは賞賛しよう。私自身を。

今回私は自身の学生生活の終わりに際しての文章を自主的に作成しようと思い立ち、筆を執っているのだ。

最近は書く内容が思いついたときにだけ執筆するスタイルを取っていたので、時の流れに合わせて作文しようというのは中々偉い。

 

私は今日、長く続いた学生生活に終わりを告げ、明日から所謂社会人というものになって労働者生活を始める。

私は長らく労働者生活を恐れ、遠ざけていた。学生の時分には、数年おきに卒業という節目が存在しており、終わりの次には新たな始まりが訪れるものだが、労働者として働き始めたら働き終わる頃には人生の終わり間際となっており、しかもその間は毎日朝から晩まで労働に費やし、実質的に自由な人生の時間などほんの僅かなものになってしまう。

つまり、学生を終えた時点で人生も殆ど終わったようなものだ、と考えていた。勿論このような考えは労働というものから遠く距離を置いていて、更には終身雇用制度のような旧態依然の常識も混ざりこんでいるものだった。

このような考え方が転換したのは実はつい最近のことで、それまでは可能な限り学生生活を引き延ばした方が自身の望みに適っていると考えていた。しかし、仮に修士や博士と進学していって学生としての身分を維持したとしても、それらの人間がやることは賃金労働者である大学教員の手先となって働くことで、それでいて労働の対価としての報酬も碌にないという、労働の回避という私の元々の目的が達成されない上に金もないという状況に陥るだけと気付き、学生生活を終わらせることに納得した。

 

しかしそれは労働を開始する理由にはならない。

先に就職していった先輩や友人たちの様子を見たり、就職活動を行ったりすることで(近年の)労働者生活が思ったよりも悪くないものでありそうだと気付いた、というのもあるが恐らくそれは副次的な理由になるのだろう。

主たる理由は世間体と判断意欲の低さと言える。

 

世間体、といっても私は抑々社会にも世界にも関心のある性質ではない。かといって孤独に生きていくことも出来ない人間だ。つまり、私の世界たる友人たち、それらからの評価を気にしている。友人たちに見捨てられない様に、友人たちに認められる様な*1人間であるために、取り敢えず周りと同じように労働者になっておこうという思考がある。そしてこの「取り敢えず」という部分が二つ目に繋がる。

判断意欲の低さ、というのは自分自身の社会生活にもあまり興味がなく、当たり障りのない分かりやすい人生経路を歩もうということだ。つまり、例えば必ずしも被雇用者として労働しなくても金や名声を得る手段はいくらでもあるのだろうが、そういったマイナーな経路*2を歩んでいこうと思えるほどの活力が私にはないのだ。人と同じことをやっていれば、100点にはならなくても0点にもならないだろうと思っている。

 

そんな訳で私は労働者となる。

今後皆が仕事を辞め出したら私も辞めるし、投資を始めたら始めるし、宗教にハマったら私もハマる*3

そう思っていてくれ。

*1:本当は自身に投影された友人たちの虚像、つまり自分自身からの承認を得れる様な

*2:これも決して人類全体で見た時、ではなく自分の友人たちを見渡して、という話なので囲まれている人間次第では歩みうる経路だったのかもしれない

*3:実は趣味だけ例外的で、あまり分かりやすく他人の趣味に流されたことがない。そしてこれこそが私の希求する自由な時間を費やすべきものなのだが、何故これが例外なのかについて考えるのはもう面倒くさいのでやめる

真面目

生来の真面目さを疎ましく思っている。私が真面目であって得するのは私ではなく私以外の人間なのだ。

 

私は遅刻をしない。集合時刻の10分前には確実に着くように更に10分前に到着するように出発してしまう。酷い時は1時間前に到着してしまう。

しかし他人は遅刻をする。私が20分前に着いていようと20分遅刻して来る。

その40分間、私は無為な時間を過ごす。これが許せない。

そして遅刻する人間は次回の集合にも次々回の集合にも遅刻して来る。改善の見込みはない。その上遅刻を責める人間を狭量とさえ思っている。この傍若無人さ。

それ故に私は許すしかない。

 

幼少期から他人に迷惑をかけないようにと教育されてきた。ルールに従い、マナーを守り、常識の範囲内の行動をとってきた。しかしそれで得をするのはルールを破る人間の方なのだ。

謂わばこれは不特定多数の人間による囚人のジレンマで、仮に全員が協力すれば全体としての効用は大きいが、現実にそんなことは生じず、協力を選択した者は裏切った者の養分になるだけなのだ。無邪気にルールを盲信している馬鹿を狡猾な悪人が利用していくのが人間社会というものなのだろう。

 

だから私は、幼少期を脱した頃から自身を悪の道へと唆してきた。毎回時間通りに集合するのをやめて、時折5分程度遅刻するようにした。しかしその度に私の根幹にある善性が悲鳴をあげるのだ。

 

大学一年生の頃、私はサークルに入った。週に何回か会合を開いて和気藹々と活動をするようなものだったが、時に目を覆いたくなるような醜悪な光景が顕現するのだった。

それは構成員がサークルをやめる時、やめる人間は必ず申し訳なさそうな様子で、サークルに対して謝罪しながらやめていくのだ。しかもその前に近しい人間に相談をするところから始めて、少しずつ許しを請いながら最終的に全員からの許しを得てやめていくのだ。

サークルをやめたらそこの人間と関わることなど二度とないのに、何故にそこまでするのだろうか。

その答えは、サークル構成員のほぼ全員が善人で、しかも悪に対する免疫がないということだ。

彼らは、サークルをやめるという他人に迷惑をかける行為を、裏切りを、受け容れることが出来ない。やめる人間自身も、その行為に対して強い罪悪感を抱いて、それを払拭するために謝罪を行う。罪を赦されて初めて彼らは新たな一歩を踏み出せるのだ。そしてまた人に迷惑をかけないように生きていくのだろう。

私はこの光景を悍ましく思っていた。それもあって、私自身もサークル加入から二年ほどしてやめる決意をした。それなりに重要な役職を任されていたが、私はある日を境に突然会合に参加するのをやめた。

残された人間たちはそれなりに面倒くさいことになっただろうが、私は楽になった。この傍若無人さこそが、私の求めていたものだ。

しかし私も元を糺せば善人で、きちんとサークル代表にやめる連絡を入れたり、役職に関する引継ぎ事項を言い残したりしてしまった。加えてサークルをやめてから一か月近く、私は罪悪感に苛まれた。

私は心から悪人にはなれなかった。きっとやめた理由には同族嫌悪も含まれていたのだろう。

 

結局、私は他人に迷惑をかけた上で、そのことを勝手に気に病んでいるような人間になってしまった。将来的に私の中心に巣食う真面目な私を追い出すことが出来るのか、それはまだ分からない。

家系

最近、祖父が亡くなった。

コロナ禍ということもあり*1、非常に小規模な葬儀となった。というか最早葬儀らしい葬儀の部分はなく、火葬場の前で遺体を見送った後、骨を骨壺に入れたくらいのことしかしていない。

葬儀に参列した人間も親族に限られており、祖父は四人兄弟の末弟で、兄弟本人もその子供たちも殆ど亡くなっていたため、参列者はごく僅かなものとなっていた。

私の父は祖父の一番上の子供であったため、葬儀に纏わる準備などでかなり慌ただしくしていたが、それは葬儀が終わっても尚解放されず、各種手続きに奔走していた。

こんな機会でもなければ見ることもないのが戸籍というもので、父親も今回初めて祖父の戸籍を確認したらしい。

そこで分かったことに、祖父は四人兄弟の末弟ではなく、五人兄弟の末弟だったのだ。父親も聞いたことも見たこともなければ、祖父の配偶者である祖母も知らない長兄がいたことが発覚してしまった。

実は祖父は生前に家系図を残しており、自身の親族は勿論、配偶者の親族まで可能な限り遡って記載されていた。そしてそこにははっきりと、自身が四男であるように位置付けており、未知の長兄については、恐らく意図的に、記載されておらず、戸籍上次男である人物を長男として記載していた。

戸籍を見るとその未知の長兄は数十年前に四十代の若さでなくなっており、しかしその頃に祖父は既に二十代で、とても長兄の存在を知らなかったとは思えない。

となると、邪推が働いてしまう。未知の長兄は、当時の価値観で、存在を人に知られたくない者だったのではないかと。

私は戸籍に記載されていた未知の長兄の死亡地を調べ(当時と現在で住所の表記が異なるので少し苦労したが)、そこが精神病院であったことを突き止めた。

祖父が亡くなってしまった今となってはその人がどういう人間で、どうして秘匿していたのか、そもそも存在を知っていたのかは知る由もない。

人が死ぬことで人に尋ねたいことが出来るというのは中々皮肉なものだと思った。

*1:これを言い訳にして金と手間を節約したかったのだろうというのが本音だろう

幸運なことに私は物心がついてから一度も葬式というものに参加したことがなく、故に喪服というものを持っていなかった。しかし人というのは突然死ぬもので、そして直後に葬式が執り行われることを考えておくと適当なものを用意しておいても良いだろうということで、喪服を購入してきた。ユニクロで一つずつ喪服の部品を集めていると軒並み黒、黒、黒ばかりで面白くなってきてしまう。これだけ黒い服装をしていたらFF15の主人公になってしまうのではないか。そもそも仏具とか袈裟とか結構カラフルなのはええんかい、という気分になる。仏教式の葬式で参列者が洋装なのもウケる。理詰めで考えると現代の大衆化された葬式は突っ込みどころ満載な感じもあるのだが、しかし葬式は儀式だからそれで良いのだろうとも思う。

子供の頃、人の遺骨は墓で永遠に埋葬されていくものだと勘違いしていた。実際には暫くして墓参りに来る人間がいなくなったりすると掘り起こされて個別の墓のない適当な場所へ再び葬られるらしい。墓の役割が最早存在もしていない死者の安寧のためなどではなく、生者である知人が死者の死と向き合うためであると考えれば至極当然で、その死を悼む人すら死んでしまったような死者の骨がどうなっていようと生者の知ったことではない。

私自身、死後の魂のような話を全く信じていないクチであるのでこのような扱いになっているのも納得なのであるが、しかし一方で自分が死後そのような扱いを受けることを想像するとやや不愉快に思う*1。それなら適当に散骨しておいた方がマシに思えてしまう。しかしそれで私の死を悼む者が困るのであれば、恐らく帰依してもない寺の中に墓を建てた方が良いのだろう*2。死者の身体は生者の慰めのためにあるのだから。

以前、私の親が「自分が死んだら葬式など必要ない」と言っていたが、残念ながらそれは些か身勝手*3で、親族のような近しい人間はともかく、葬式でもないと死を受け容れるタイミングのない知人に対して酷な仕打ちとなってしまうのだ。たとえ日頃一切宗教儀礼を行っていないとしても、教義に於ける死後の世界の扱いを知らないとしても、適当な宗教に則った適当な葬式を開いて、見ず知らずの僧侶に念仏を唱えさせて、何となく死者を悼んでるっぽい黒色の服に身を包んだ人間たちが参列している状況があることで、理性を超えて死が受容される。内実がなくとも形式が役割を果たすという意味で、現代の葬式はより一層儀式的な儀式なのだろう。

*1:これは丁度私が人間以外の生物に感情を認めていないために動物愛護など無駄であると考えている一方で、ペットとして飼われている動物を憐れんでしまうのと似ている。

*2:自身の死後に於いて「良い」も何もないが。

*3:感情的には自身についての葬式の開催を決めるのは当人の権利で、身勝手などないようにも思えるが、理性的に考えるとやはり生者の為の儀式たる葬式で死者の意見は二の次になってしまう