作文練習

真理を記載しています。

最近の悩み

世間の人間が音楽を聴いている代わりに私はラジオを聴いている。

思い返してみるとラジオを聴き始めたのはもう十年近くも前のことになる。

大学受験に失敗して浪人することになったものの、その現実を受け止め切れていないような3月、気づけばその当時にハマっていたコンテンツの声優が数年前にやっていたラジオの、恐らく合法的でなくアップロードされた録音を聴いていた。

物心のついた日を覚えていないように、聴き始めた瞬間のことを記憶してはいないが、しかしあの時の虚無感とその空白をラジオに埋めてもらっていた感覚は思い出せる。

その後何の因果か5年ほど前から小学生時分以来にお笑いにハマって、10年前にアップロードされた芸人のネットラジオを今でも毎日のように聴いている。

恐ろしいのは私にとってのラジオとの距離感が、聴き始めたあの頃から殆ど変わっていないということだ。

始めに世間の人間にとっての音楽が私にとってのラジオだということを述べたが、それはややミスリーディングで、世間の人間が音楽を聴くシチュエーションと私がラジオを聴くシチュエーションは恐らく大きく異なる。

同じなのは再生時間くらいなのではなかろうか。

今も昔も私はゲーム中にラジオを聴いている。あの頃はMHP2Gをやりながら、今はHoI4をやりながら。

この姿勢はラジオにもゲームにも失礼だという批判は的を射ていて、正直ラジオの内容は殆ど頭に入っていなくて、それ故に5年前からずっと同じネットラジオを繰り返し聴いている。

ゲームにも大して集中できない。だから新しく買ったストーリーメインのゲームなどをやる時にはラジオを聴かないようにしている。*1

何故こんなことをしているかというと、ゲームをしている間の少しの待機時間、例えばロード中やしょうもない移動中などの退屈を埋めるためでもあり、逆に言えばラジオを聴いているだけでは有り余る脳のリソースを埋めるためでもある。

ゲームに課された決して新しくないタスクを常にこなしながら、その間隙をラジオで埋める。これによってある種の無我の境地に至っているとも言える。

酒飲みが酒によって、喫煙者が煙草によって現実から逃避しているのと同様に、私はゲームとラジオの同時進行によって思考の余地を奪っている。それを娯楽としている。

 

しかしこれは非常に虚しい営為なのではないかと最近思ってきた。

Xで見た言説にそのまま影響を受けるようになってしまうが、消費的な娯楽だけではなく自己発信型の趣味を見出していかないと今後の人生を楽し生きていけなくなってしまうのではないか。

しかしそのような創作的な趣味は頭を使わされる。仕事で頭使った上で余暇でも頭使いたくないからこのような形態に落ち着いたのではないのかという疑念が頭を過る。

その信念も真であるのか。仕事でしんどいのは頭使うことというより人間と関わることであって、別に余暇に頭を使うことを忌避する理由は特段ないのではないか。

そもそも頭を使うことで忘我に至ることもできるはずだ。現にこうして文章を書いている間はビジネス本読んでいるより圧倒的に素早く時間が過ぎてくれる。

時間に素早く過ぎてほしいというのはどういう願望なのだろう。余暇の時間が素早く過ぎればそれは余暇が終わって仕事が近づくというだけだ。

仕事は明らかにしんどい。何故なら人と関わるからだ。

でも人と関わる形の余暇の過ごし方もしたい。友人との関わりがないような人生なんてそれこそ虚無だ。

つまりどういうことか、私に創作型の趣味を厭う理由はないはずなのだからこれから余暇の過ごし方を変えていっても良いはずだ。

では何をするのか。元来私には創作意欲というものが欠けている。

ゲームは好きだが恐らく作れるほどの熱量はない。コーディングを趣味にできれば仕事にも役に立つのだがこれも特に作りたいものがなくて恐らく続かない。

では文章かというとこれも結局このブログが半年に一度程度しか更新されないことから分かるように、文章も本当に書ける内容がない。

ラジオに投稿してみるかと思ったこともあったが、我ながら本当にユーモアを考える方向に鍛えられていなさ過ぎて挫折した。

何も分からん。

仕事へのしんどさの正体と余暇を本質的にどう過ごしたいのか、人間との距離の取り方、創作型の趣味の方向性辺りはこれから一考の余地がある。

*1:勿論この文章を書いている間もラジオを聞いていない

虚構と二重思考

ディズニーランドとディズニーシーをひっくるめて言いたい時、ディズニーリゾートって言ってみるけどなんかホテルとかも含まれている感じがしてしまって、ただ両パークだけを指したいのに…となってしまう。

 

世の中にはディズニーランド・ディズニーシーを楽しめていない人間が結構な割合で存在していて、しかし家族・友人・恋人に連れられて仕方なく徘徊しているらしい。

自分がパーク内でそんな感じの人間を見かけると、興味ないなら帰って混雑率の緩和に貢献してくれ、と思いそうになるが情状酌量の余地はあるのでここはグッとこらえてそういう人たちがどうしたらディズニーランド・ディズニーシーを楽しめるようになるのか考えてみよう。

仮想的として過去の私を設定する。かくいう私も最近になってようやくディズニーランド・ディズニーシーを楽しめるようになった人間であるのだ。

 

ディズニーランド・ディズニーシーを楽しむに当たって重要になるのがストーリーライド、則ち原作のストーリをなぞるのがメインの乗り物系のアトラクションである。

遊園地といえばジェットコースターやコーヒーカップといった物理的な動きで感情を揺さぶるものがメインだと考えている人間に対して、ストーリーライドは酷く退屈である。ストーリーライド中は緩慢な動きで人形感丸出しの人形が同じ動きを繰り返しているのを眺めるだけなのだから。

しかし、こういった人たちがまず認識を改めるべきはここで、ディズニーランド・ディズニーシーはテーマパークなのだ。テーマパークは創作を楽しむものであると肝に銘じておかなくてはならない。

創作を楽しむとはどういうことかというと、つまり映画鑑賞と同列に考えろ、ということである。近年は4DXとか言って上映中に客席を揺さぶってくるようなものも存在しているが、しかしそれを楽しみに映画館へ向かったら楽しめないのは当然だと思ってほしい。

 

このマインドを持つことによって、「所詮作り物の人形でしょ」という批判は批判になっていないことが分かる。映画の内容を現実だと思っている人がいないように、ライドの内容を現実だと思っている人間は存在しない。寧ろそれらを作り物と認識しているからこそ楽しめるのだ。

永田敬介という芸人がネタ*1の中で「パーク内のミッキーは中身が人間の偽物だ。もし本物だと本当に信じているのなら正気ではいられない。」*2というようなことを述べている。もし虚構の存在であるミッキーマウスが真に現前しているとしたら握手して記念撮影している場合ではない。それが偽物だと理解しているから自身に内在する虚構世界の住人を投影できるのだ。

 

私はストーリーライドを楽しんでいるが、しかし同時にライド内の演出の方法を探っている。アナとエルサのフローズンジャーニーで氷の階段が生み出されるシーンがどのように実現されているかを解明している。

この行為は魔法を否定する夢のない所業だろうか?しかし、私にとって魔法などというものが現実に起こりえているとしたら安心してライドを楽しむことが出来ない。魔法のような現象を現前せしめている技術を解き明かし、その並々ならぬ努力に感銘を受けつつ、その上で魔法に魅せられるという二重思考を行っているのだ。*3

それ故にディズニーランド・ディズニーシーを冷めた目で見ている人間にこそ楽しむチャンスがある。その思考の上に創作を楽しむ心を乗せてあげるだけで良いのだ。

 

まとめると、ストーリーライドの楽しみ方は簡単だ。ストーリーを楽しめ。キャラに共感して光景に感動しろ。

それが出来ればパーク全体も楽しめる。それぞれのエリアの設定を読み込んで細部の作りこみを見つけろ。虚構のキャラクターを演じきっているアクターを畏れ敬え。

そうすることで初めてテーマパークという現実の依代に夢の国という虚構を降ろすことが出来る。

*1:https://youtu.be/drV78LIleCs?si=-GJjgWtZU26hZEz3

*2:筆者による要約

*3:この二重思考自体はさして難しいものではない。先述したように映画鑑賞などで誰しもが行っていることなのだ。

髪は切った方が良い

2024年6月に東京ディズニーシーに新アトラクション「ラプンツェルランタンフェスティバル」がオープンした。

同時にオープンした「アナとエルサのフローズンジャーニー」が原作のストーリーを追体験するようなライドであるのと対照的に、ランタンフェスティバルラプンツェルとフリンとのランタン鑑賞シーンに全振りしたようなライドとなっている。

そのため、ライドの前半では「塔に囚われるラプンツェル」「フリンとの出会い」「フリンとの近づき」等をざっくりと描いて、クライマックスとしてランタン鑑賞シーンをぶち込むというような構成になっている。

近年ライドの内容をスマホカメラで撮影してSNS等にアップするという行為が半ば推奨されるようになったのもあり、SNS映えに全振りしたライドは存在して然るべきであるし、全ライドで本編のストーリーをなぞる必要は全くない。この点でライドのデザインとして十分に理解できるものである。

しかしそうは言っても、「塔の上のラプンツェル」を扱う日本初のアトラクションにおいて、マザー・ゴーテルを登場させずに恋愛の側面のみを強調してしまうのは、特に原作を見ずにアトラクションだけ乗る人間に対してこの作品自体を非常に薄っぺらいものと思わせてしまう危険性を孕んでいるように思われる。

というか未だにラプンツェルのアトラクションがマザー・ゴーテルを欠片も出さずに作り上げられていることが信じられない。*1

 

ここで改めて「塔の上のラプンツェル」のストーリーを軽くおさらいしておこう。

とある王族の一人娘として生まれたラプンツェルは訳あってその髪に特別な能力を宿す。その能力とは人の傷を治し、老いを若返らせるというものであった。

その能力に目を付けた魔女ゴーテルはラプンツェルを誘拐し、自分のものとするために塔の最上階にラプンツェルを幽閉した。

塔の外の世界を夢見て育ったラプンツェルの元にある日フリンという盗賊が現れ、彼はゴーテルが不在の隙にラプンツェルを塔の外へ連れ出してくれる。

やがて二人は相思相愛になっていくが、ラプンツェルを手許に置いておきたいマザー・ゴーテルはフリンをナイフで刺して致命傷を負わせる。

マザー・ゴーテルはラプンツェルに対して究極の二択を迫る、フリンをラプンツェルの髪の力で直すのであれば二度とゴーテルの下を去れない、さもなくばフリンを見殺しにしろ、と。

ラプンツェルがマザー・ゴーテルへの恭順を誓い、フリンを治そうとしたその瞬間、フリンは最後の力を振り絞ってラプンツェルの髪を一刀両断する。

魔法の力を失ったマザー・ゴーテルは見る間に若さを失って塔から落ちていく。フリンの命も絶望的に思われたが、ラプンツェルの涙に宿った最後の力によって一命をとりとめる。*2

マザー・ゴーテルから解放されたラプンツェルは本当の両親と出会い、フリンと仲睦まじく暮らしていく。

 

作品の見方は色々とは思うが、個人的にこのストーリーの主軸は母娘間の関係性に置かれていると見てしまう。

ストーリーを軽くなぞるだけだとマザー・ゴーテルは非常に利己的で、ラプンツェルの存在を自分の若さのためだけの道具として利用しているように見えてしまうが、細かい描写を見ていくとそう単純でないことに気付かされる。*3

例えば、ラプンツェルが塔を抜け出してフリンと共に酒場へ行き、酒場の荒くれどもと共に自分の夢を歌い上げるシーン。

ラプンツェルが"And with every passing hour, I'm so glad I left my tower"と歌う。

酒場の外からその様子を覗いていたマザー・ゴーテルは酷くショックを受けたような顔をしてその場を立ち去ってしまう。

マザー・ゴーテルが単純にラプンツェルを道具扱いしているのであれば、自分の下を離れたいと強く願う姿を見ても、「道具のくせに逆らいやがって」という怒りしか湧いてこないだろう。

自分がそうであるように、ラプンツェルも自分のことを愛していて、本心では塔にいることを望んでいるはずだ、と無意識下で思い込んでいたからこそショックを受けているのだ。

 

このように「塔の上のラプンツェル」という作品においてマザー・ゴーテルは形式上、本当の母親ではなくそれどころか誘拐犯という悪役ではあるが、しかしそれは飽くまで最終的に打倒されることでハッピーエンドとなるというストーリー上の要請から来るものである。

マザー・ゴーテルとラプンツェルとの関係自体は一般的な母娘の関係と同様に見るべきであり、故に「塔の上のラプンツェル」という物語は母の愛という束縛を断ち切るという普遍的なテーマの下に位置付けられるだろう。*4

 

母の愛という束縛は"Mother knows best"という曲の中に強く表れる。塔の外へ出たいというラプンツェルを諫めるためにマザー・ゴーテルが歌う曲となっており、ラプンツェルを愛しているからこそ外の世界という脅威から守ってあげたいのだということが再三主張される。

歌詞を挙げだすとキリがない*5が個人的に好きなのは"Me, I'm just your mother, what do I know? I only bathed, and changed, and nursed you."という反語にまみれた嫌味ったらしい一節だ。こんなことを言われたら逆らえるものも逆らえない。赤子だった自分を献身的に育ててくれたという絶対的な恩が母親のもつ最強のカードであり、故にそれをあからさまに切ってくる母親は呪いでしかなくなる。*6

 

作中でそんな母娘の絆を表すのがラプンツェルの髪の長さだ。設定的にはラプンツェルの髪は一度でも切られるとその部分の魔法が失われてしまうために、生まれてから一度も髪を切られず、常軌を逸した長さとなっている。

元々マザー・ゴーテルはその髪の魔力を目的としてラプンツェルを誘拐したという縁から、二人を結びつける最初のきっかけでもあり、マザー・ゴーテルが塔を上り下りする際にはラプンツェルの髪をロープ代わりにするという物理的な接続も担っている。

そんなラプンツェルの髪の長さはマザー・ゴーテルとラプンツェルが過ごした日々の長さをそのまま表していて、則ちマザー・ゴーテルからラプンツェルへの愛の深さ、呪いの重さの象徴となっている。

それ故にラストでフリンに髪を切られるシーンに絶大な意味がある。ここでフリンからラプンツェルを引きはがそうとするマザー・ゴーテルは娘の初めての恋人に強い拒否感を覚える母親と重ねられる。母からの愛を感じていればいるほど、母と恋人の二択で後者を選ぶことは難しい。母の愛という鎖は自分で断ち切ることが出来ず、故にフリンの自己犠牲によってはじめてラプンツェルは解放されるのだ。

 

このような観点から個人的にエピローグでフリンと結ばれて「本当の両親」に迎えられてハッピーエンド感を出されているのはあまり好きではない。少女が母の呪縛から逃れた先が別の家庭や男との関係しかないというのは救いがない感じがしてしまう。

Frozen 2のエルサのように既存の柵をすべて投げ捨てて生きていくのも一つの選択肢として少年少女に示していくのが現代ディズニーの役割なんだろうと思う。

*1:Frozenのアトラクションでエルサを出さないくらいの暴挙だと思う。

*2:ここでフリンが生き残るのは後世の改変っぽい。私の脳内の仮想原作ではフリンは死んでいた。

*3:そもそも若さを保つための道具にしてはラプンツェルが塔の中で自由に過ごし過ぎている。ラプンツェル自身の幸せを願っていなかったら"When will my life begin"で描写されるほどラプンツェルが多趣味でないだろう。

*4:両親や社会といった束縛の中にある少女が男との出会いによって解放されるという古典的ディズニープリンセスストーリーと同様

*5:"plus I belive, getting kinda chubby"とかも好き。これを言ってくる親は最悪過ぎる。しかしこの最悪さが魔女の邪悪さではなく親の醜悪さであるのがその他のディズニーヴィランと一線を画す点なのである。

*6:ラプンツェル側もこの曲の中で"I love you more."と言っているように自由を求める気持ちと母への愛は並立している。これをストックホルム症候群と切り捨ててしまうのはやや早計と思う。

非社会的労働者

昨夜は悪夢に魘された。

研究室で実験している夢であった。

 

未だに私は大学で研究をしていた日々を苦々しく思っており、だからこそ学生生活に終止符を打つという節目を寿いだのだと思う。先程その頃の自分の文章を読み返して、そのような心境であったことが思い出された。

 

machitomu.hatenablog.com

 

労働者として過ごすことは、正直研究者として過ごしていた時期よりは心穏やかで、まだ夢に見るような経験をしたことはない。

一方でやや辟易している面もある。

 

最近自覚したのだが、私が幸せを感じやすいのは自分の感情が高まっている時というよりは寧ろ平静としている時で、特にゲームしたり動画見たり漫画読んだりで思考を回さずに時間を溶かしているようなのが余暇の大部分を占めていないと辛くなる。

人と会って何かするのも時々は欲しいが、本当に時々で良い。

後は一人で何かに没頭して時間を忘れたい。

 

労働者として生きているとそういった時間がかなり少なくなる。勤務時間に人と関わらなければならない分、余計に孤独を欲している。

孤独を希いながら平日を過ごし、平日の到来を恐れながら休日を溶かしている。

この生活にどれほどの持続性があるのか、私にも分からない・

 

社会人とはよく言ったもので、どうやら私は継続的に社会で労働していくことが難しいのかもしれない。

 

思考の形状

リンゴを思い浮かべてみてほしい。

 

私がリンゴを思い浮かべるとき、なんとなくその色や形が定まっている。やろうと思えば嚙んだ時の歯応えや、味なんかも想像することが出来る。

例えば黒くて角ばった自分の身長よりも大きい物体を持ってこられて、「あなたの想像したリンゴはこれですか」と尋ねられたら、相当強い自信をもって「違います」と答えられるだろう。

或いはフニャフニャで噛んだらとめどなく苦い液体が溢れ出てくるような物体を持ってこられて同じことを尋ねられても、やはり「違います」と答えられるだろう。

 

これをどんどんリンゴ様の物体に近づけていったらどうなるだろう。

例えば赤くて真球に近いような物体を持ってこられたら、「形が違う」と判断できるだろう。青リンゴを持ってこられたら「色が違う」と判断できるだろう。

そして遂には私が「リンゴ」としか言えないような正しくリンゴが持ってこられる。しかしそれは私が最初に想定していたリンゴと必ずしも完全に一致していない。色や形が僅かに異なっている。きっと歯ごたえも異なるのだろう。

しかし私はどのようなリンゴを持ってこられようとも想像と完全に一致していると判断することは出来ないのではないだろうか。というのもそもそも当初想定していたリンゴというものがとても曖昧で、裏側がどうなっているかまで想像が及んでいなかったり、内部の種の位置がどうなっているかなんて気にしてもいない。

 

では一体私は何を想像していたのだろうか。

現実のどのリンゴと一致するわけでもなければ、今まで私がリンゴとして認識してきたものの平均値や中央値的なものでもない(そうであれば種は消失していない)。

 

敢えて最初から抽象的な事物を思い浮かべてみよう。

例えば三角形。

適当に思い浮かべると二等辺三角形っぽくなる。黒の三本の線分で構成されていて、面の部分は白い。しかし本当に真っ白だろうか、と言われると自信を持てない。#FFFFFFだろうか*1

線の太さ、辺の長さ、厚み、なんてどのような値を設定したとしてもしっくりこない気がする*2

 

以前の記事における想像不可能性みたいなところはこういう例との類推で理解できる*3

 

machitomu.hatenablog.com

 

*1:こう言うと色覚が鋭敏な人なら少なくとも色に関しては一意に定められると言いたくなる。私自身がどのような側面に対してもそのような鋭敏な感覚を持っていないので自信はないが、しかしそれは違うのではないかという気がする。

*2:勿論数学的な三角形の定義にこのようなアスペクトは不要だが、ここではどのようなものが現前したら納得できるかを考えている

*3:このような考えを突き詰めていくと、「私の思考はどのような現実事象にも対応していない」「私の言語表現は現実世界に届かず、空想世界で閉じてしまっている」と言いたくなる。そして同時に「そんな訳がない」とも言いたくなる。この図式は所謂「ツルツルした氷」と「ザラザラした大地」の比喩から捉えることも出来るかもしれない。

思考の声

私の思考は声として聞こえる。

 

たとえば本を読む時、私は眼で捉えた文章を頭の中で「音読」している。自分自身に読み聞かせてあげることで文章を頭に入れている。それ以外の方法を知らない。

同様にして一人で何かを考える時も、考えを声にして頭の中で響かせる。それ以外の方法で、たとえば文字を思い浮かべて思考することというのは出来そうにもない。

 

1つ気になるのはこれが一体誰の声なのか、ということだ。あまり音に関して繊細な人間でないので断言は出来ないが、この脳内の声は自分自身の肉声とは違ったものに思える。かといって他の誰という訳でもないし、脳内の声を出力して照合させることも出来ない。

或いは今時合成音声を使って様々な声を生成していけばいずれはこの声に近いものを生み出せるのかもしれないが、どうにもそういう代物とも思えない。耳で聞いた途端に逃げていく気がする。

 

そもそも一定の声色なのかすら定かでない。何なら小説を読んでいる時などは人物によって僅かに声色を変えているような気がする。それらの声も誰を参照しているのか分からない。

 

そしてこれに一般性はあるのだろうか。

私以外の人々は自身の思考の声を聞いているのだろうか。

学生生活の終わりに寄せて

まずは賞賛しよう。私自身を。

今回私は自身の学生生活の終わりに際しての文章を自主的に作成しようと思い立ち、筆を執っているのだ。

最近は書く内容が思いついたときにだけ執筆するスタイルを取っていたので、時の流れに合わせて作文しようというのは中々偉い。

 

私は今日、長く続いた学生生活に終わりを告げ、明日から所謂社会人というものになって労働者生活を始める。

私は長らく労働者生活を恐れ、遠ざけていた。学生の時分には、数年おきに卒業という節目が存在しており、終わりの次には新たな始まりが訪れるものだが、労働者として働き始めたら働き終わる頃には人生の終わり間際となっており、しかもその間は毎日朝から晩まで労働に費やし、実質的に自由な人生の時間などほんの僅かなものになってしまう。

つまり、学生を終えた時点で人生も殆ど終わったようなものだ、と考えていた。勿論このような考えは労働というものから遠く距離を置いていて、更には終身雇用制度のような旧態依然の常識も混ざりこんでいるものだった。

このような考え方が転換したのは実はつい最近のことで、それまでは可能な限り学生生活を引き延ばした方が自身の望みに適っていると考えていた。しかし、仮に修士や博士と進学していって学生としての身分を維持したとしても、それらの人間がやることは賃金労働者である大学教員の手先となって働くことで、それでいて労働の対価としての報酬も碌にないという、労働の回避という私の元々の目的が達成されない上に金もないという状況に陥るだけと気付き、学生生活を終わらせることに納得した。

 

しかしそれは労働を開始する理由にはならない。

先に就職していった先輩や友人たちの様子を見たり、就職活動を行ったりすることで(近年の)労働者生活が思ったよりも悪くないものでありそうだと気付いた、というのもあるが恐らくそれは副次的な理由になるのだろう。

主たる理由は世間体と判断意欲の低さと言える。

 

世間体、といっても私は抑々社会にも世界にも関心のある性質ではない。かといって孤独に生きていくことも出来ない人間だ。つまり、私の世界たる友人たち、それらからの評価を気にしている。友人たちに見捨てられない様に、友人たちに認められる様な*1人間であるために、取り敢えず周りと同じように労働者になっておこうという思考がある。そしてこの「取り敢えず」という部分が二つ目に繋がる。

判断意欲の低さ、というのは自分自身の社会生活にもあまり興味がなく、当たり障りのない分かりやすい人生経路を歩もうということだ。つまり、例えば必ずしも被雇用者として労働しなくても金や名声を得る手段はいくらでもあるのだろうが、そういったマイナーな経路*2を歩んでいこうと思えるほどの活力が私にはないのだ。人と同じことをやっていれば、100点にはならなくても0点にもならないだろうと思っている。

 

そんな訳で私は労働者となる。

今後皆が仕事を辞め出したら私も辞めるし、投資を始めたら始めるし、宗教にハマったら私もハマる*3

そう思っていてくれ。

*1:本当は自身に投影された友人たちの虚像、つまり自分自身からの承認を得れる様な

*2:これも決して人類全体で見た時、ではなく自分の友人たちを見渡して、という話なので囲まれている人間次第では歩みうる経路だったのかもしれない

*3:実は趣味だけ例外的で、あまり分かりやすく他人の趣味に流されたことがない。そしてこれこそが私の希求する自由な時間を費やすべきものなのだが、何故これが例外なのかについて考えるのはもう面倒くさいのでやめる