作文練習

真理を記載しています。

食事

生来の偏食傾向で特に幼いころはかなりの苦痛を味わった。

大人というものはとかく「好き嫌いをする子供」を矯正させようと躍起になるもので、家庭の食事でも学校の給食でも私は問題児であった。きっとそういう人間は「なんでも食べられる良い子」として育った上に他人の苦しみを想像できない馬鹿か、子供の身体の刺激への敏感さを忘れてしまった馬鹿なのだろう。嫌いな食べ物を口に入れた時の嫌悪感は凄まじいもので、即座に吐き気を催す。子供の舌を指で押し下げて嘔吐させるような行為を彼らは毎日のように為していたのだが、彼らはきっとそんなことを当然のようにやってしまえる邪悪なのだろう。

そんな少年期を過ごした私にとって、食事は基本的に毎日行わなくてはならない面倒な作業という認識となっている。勿論、美味しいもの*1を食べるのは好きだし、出来るだけその頻度を増やしたいとは思っているが、基本は回避できるのなら回避したいものである。必ずしも毎食美味しい食事を摂りたいとも思わず、一日に一食程度満足な食事を摂れれば、後は栄養摂取のための作業に過ぎない。故に所謂完全食のようなそれさえ食べれば必要な栄養が摂取できる食事に憧れる。食卓に料理が何品もならんでいて、それぞれ味や食感が違っていて、それぞれがどんなものか予想しつつ口に運び、実際の味との違いにいちいち感情を揺さぶられたりするようなのは、正直非常に面倒くさい。何度も食べたことのある美味くも不味くもないものを無感情に10秒で胃に流し込んで食事を終えられるのならそれは非常に気楽だ。可能ならその上で美味しいものの味だけを感じたい。つまり、娯楽としての食事と義務としての食事が完全に分けられた状態が理想的で、毎日娯楽に興じないと生きていけないわけではないように、時々だけ前者の食事を楽しめればそれで良い。

このような思想に共感できない人間が、私の体感では多数派である。そういう人々はきっと幸せな食生活を送ってきて、目の前の食事が自分を苦しませる可能性を検討する必要がなく、食事は常に喜ばしいものという信念を抱いて疑わないのだろう。そしてそれ故に今後も私のような人間が生まれ続けるのだろう。

*1:味に鈍感になるような形質を獲得してきたので、美味しいものの粒度もかなり粗い