作文練習

真理を記載しています。

イデアと翻訳とラプラス変換と

私は林檎を手に取る。私は林檎を手に取る。私は林檎を手に取る。

今、私は異なる三つの林檎を手にした訳だが、文章の上でそれは伝わらない。言葉とは便利なもので、こんなにも大きさも、重さも、形も、色も、味も異なる物質を「林檎」として一括りに指示することが出来るのだ。

私は林檎を手に取る。

ここで私の手の中に鉛筆が握られていたら、それは嘘ということになってしまうだろう。三つの林檎と同様に大きさと、重さと、形と、色と、味が異なるだけの物質なのに、それを「林檎」と指示することは出来ない。多少異なることは許されるが、過剰に異なることは許されない。「何」から異なることが許されないのだろう。それはきっと林檎の理想形。我々が林檎という名指される物体に対して期待する性質を全て兼ね備えているもの。このような概念を古代の哲学者プラトンイデアと呼んだ。

イデアについて理解するために「洞窟の比喩」が有名だ。我々は暗い洞窟の中にいる。洞窟の中で手足も首も固定されて動かすことが出来ないまま座らされている。ふと背後に火が灯され、目の前にある壁面が明るく照らされる。勿論背後の火を我々が見ることはなく、壁面のみが眼に映るばかり。我々の背後と火の間を何かが通り過ぎたようだ。我々はそれが何であるかを壁面に映る影から推測する外ない。やがて見慣れた影に対して我々は名前を付ける。我々は本当にそれがどういうものであるのか永遠に知ることがないのだけれど。

この比喩に於いて影が現実の物体に対応し、背後を通り過ぎるものがイデアに対応する。我々が林檎と呼んでいる少しずつ性質の違う物たちは、林檎のイデアから現実へ投影された異なる側面に過ぎないのだ。

だがそんなことを言っても机上の空論に過ぎないだろうとも思われる。現世に生きている限りイデアを識ることは出来ないのだから。しかし私は日常の中でイデアの一端に触れることの出来る瞬間があると思っている。それは翻訳だ。"apple"を「林檎」と訳す程度では単なる辞書的な対応としての翻訳となってしまい実感し辛いのだが、ある程度複雑な構造をした長い文章、たとえば"I am eating an apple which I bought yesterday."を「私は昨日買った林檎を食べている。」と訳す時、私の中で文章は一度言語の形態をとらなくなる。少なくとも私はその感覚を言語化することが出来ない。英文を読んでそれが指し示す状況を理解する。それを日本語として再構築する。その間にあるものは英語でも日本語でもなく概念そのもの、謂わば言語のイデアとも呼ぶべきものに出逢っているような感覚に襲われる。

これと似たような事例として―大学数学の域に踏み込んでしまって申し訳ないが―ラプラス変換がある。ラプラス変換の詳細について記すには余白が小さすぎるため、概略のみに留めるが、f(x)=g(t)のような(そのままでは解くのが困難な)微積分方程式に対してラプラス変換と呼ばれる特殊な操作を施すとF(X)=G(s)という微積分の関係しない形になり、これは代数的にX=H(s)のように解くことが出来るので、これに対してラプラス変換の逆変換を用いるとx=h(t)という形に戻すことが出来、見事困難な微積分方程式を解くことに成功している、というようなものだ。ここに於いて、問題も解答もx,t,f,g,hといった文字で構成された領域で完結しており、ラプラス変換中に登場したX,s,F,G,Hのような領域は計算過程にしか出現してこないし、領域間の文字同士の関わりはラプラス変換のみであり、あたかもX,s,F,G,Hはx,t,f,g,hの裏面のように振る舞う。表面のままでは演算が困難であり、一度すべて裏へ返すことで演算が可能になり、演算が終わったら表へ戻す。この過程が翻訳にかなり近いように思われる。英語を単語の置き換えで直接日本語に翻訳することは非常に困難であり、一度言語では表現不可能な思考の世界へと反転させ、日本語に沿った形へ変形させた後に、言語へと戻していく。ここにイデアを感じる。

ところで最近機械翻訳の精度が飛躍的に上昇している。これにはご存じの通り機械学習の発展が寄与している。機械学習の応用に於いて近年ブラックボックス問題というものが取り沙汰されている。これは機械学習によって導き出された出力にどのような根拠があるのか人間には分からず、故にどれ程信用して良いのか分からない、といった問題である。機械学習は一般的に学習データを用いてある特定の分野に関してのデータにおける特徴的な点を抽象し蓄えておき、新規のデータが入ってきたらその特徴にマッチしているかを判断する、というような仕組みをしているが、この特徴が実際のデータの何に対応しているのか判別するのが非常に難しい。入力と出力は当然我々にも解釈可能な形であるのに、その過程を取り出すと何が何だか分からなくなってしまう。

思うに彼らは、機械はイデアを経由しているのだ。表現不可能な思考の世界を彼らも垣間見ている。しかし残念ながら彼らにそれを認識する主体はない。それはまだ人間だけの特権なのだろう。

というより、私だけの。