作文練習

真理を記載しています。

論理が先か、言語が先か

論理という概念を編み出した人類は、言語を論理によって体系づけようと目論み、やがて論理に立脚して言語が存在しているという認識を生んだ。それに対して論理がアプリオリかどうかとか言って反駁することによって言語の復権が行われた。

「論理が先か、言語が先か」という命題は以上のような意味である。これに対するマイルドな解は「論理と言語が一緒になって発達してきた」的なことだろう。しかしそのような言い方をすると、それならば先に編み出された方があるのではないか、つまり時間的な意味での*1「論理が先か、言語が先か」という命題を立てられるのではないかという気がしてきてしまう。

原始的な言語・論理としてジェスチャーのようなものが想像される。ここでは指差しで考えてみよう。原始人が原始人に対して適当な場所を指さしている状況を想像してみる。ここに言語はあるのか。論理はあるのか。

そもそも我々はどういうものに対して言語的だとか論理的だとか思うのだっただろうか。例えば猫が互いに鳴いているのを見て、喋っているみたいと思うのはそれなりにロマンチックだが、言語とか論理とかがあるのかと問われると、流石にそうではないだろうと考える人が多数派なのではないだろうか。一方所謂外国語話者を見て同様に思う人は少数派なはずで、そこには言語と論理があるように思えてしまう。それはきっと人間の歴史の中でどういう訳か*2言葉が通じない人間との意思疎通がとれることを発見してきたからなのであり、一方で猫とはそれが発見されていないからなのであろう。

つまり少なくとも、言語と論理という概念を把握しているものが存在し、それが何らかの方法で特定の行動に言語とか論理とかが介在していることを認めることで言語や論理が存在することになる。

であれば、原始人の指差し行為に言語や論理が宿っているかを考えようとすると、そもそも彼らが言語や論理という概念を有していないことが問題となる。仮にその時代に現代の人間を送り込んだとしても、猫の言語を認知できないように、原始人の行動に言語や論理を見出すことは出来ないのではないか。そして意思疎通が可能になるほどに成熟してしまうと既に言語も論理も存在してしまうのでどちらが先だったかは不明瞭になってしまう*3

 

いずれ異星人を発見した際に、互いに互いの知性を認められると良いなあ。

*1:逆に上記の命題は「どちらが根本か」に近い

*2:つまり猫が鳴いているのと外国語で喋られるのは似たようなもので、ともすると全く意思疎通が不可能なことも有り得る。ものに名前がついていないことすら考えられるのだから。

*3:幼児の言語習得についても同様のことを考えられそう