作文練習

真理を記載しています。

老倉育と意味

"意味なんてないわよ。意味なんて嫌いだもの。"というのは終物語に於ける老倉育の発言の一つである。これを鑑賞して感傷に浸るだけで終わっても良いのだが、折角なのでこれの"意味"するところを考えてみよう。

まずは老倉育のキャラの柱である自己嫌悪から話を始めよう。彼女の自己嫌悪の原動力は自己実現の不足にある*1。(私が知る限りの)人間社会で生きていると絶えず自己実現を求められる。幼児期からスポーツ選手やアイドル等に憧れさせられるところから始まり、数年おきに将来の夢を訊かれ、大人になっても数年後数十年後の自己の在り方の展望を求められ続ける。更にはそういった肩書的な目標だけではなく、身の回りの人間との関わりの中で生まれてくる劣等感、そしてそれを克服することによって周囲の承認を得たいという欲求にも苛まれる。

資本主義に毒された人間たちは右肩上がりしか許さない。失敗は怠惰の産物であり、勤勉が成功を導くと信じ込んでいる。そしてそれを他人以上に自身に向けて強いてしまう。故に一歩一歩に、一挙手一投足に、一刻一秒に成長という"意味"を求めてしまう。無意味な行為は、自己実現に繋がらない行為は停滞であり後退であり糾弾されるべき行為なのだ。

しかし残念ながら努力は必ずしも報われないという救われない現実がある。建設的な日々を送っていても挫折は訪れてしまう。それが一度であれば、或いは再び歩みだせるかもしれない。しかし幾度も繰り返され、失望が蒸し返される内に恐ろしくなってしまうのではないだろうか。自身の歩むあらゆる道程が挫折という形で努力の否定へ繋がっているのではないか。そうであるならば、一歩も踏み出したくはない。"意味"のあることなんてしたくないし、自身の行動に"意味"があることが恐ろしい。

故に"意味"を忌み嫌う*2*3

*1:自己実現の具体的な内容としては人間関係の充足であるだろう。母親とのコミュニケーションのために数年費やし、友人に助けを求めるために一夏を費やしたもののいずれも失敗に終わっている。そしてそういった努力が結実しないことが切実な問題として彼女に迫っていることは作中の独白からも伺える。

*2:文脈的に老倉の発言の意図と合致しないとかありそうだけど、彼女の場合文脈を無視した突発的な感情の発露とかありそうなのでそういうことにしておいてください

*3:ところで物語シリーズに於いて怪異とは発現者の逃避の象徴として扱われており、重荷として切り捨てた想いが形を成して襲ってくる。だから怪異との闘いは基本的に自己解決が理想的であり、一人で勝手に助かるだけなのだ。老倉が物語ヒロインの中でも随一の重い過去を背負っているにも拘らず唯一怪異を発現しなかったのは、逐一自分の弱さと向き合い続けた結果なのだろう。