作文練習

真理を記載しています。

日常会話の論理

「論理的な喋り方」「非論理的な喋り方」のような表現があることから分かるように、我々は会話の背景に論理の存在を措定し、それに忠実かどうかをある程度判断できると考えている。故に日常会話を精査していくことでその背後に潜む論理の姿を白日の下に晒すことが出来ると考えるのは自然なことだろう。しかしそうやって論理に迫ろうとすればするほど論理は遠ざかっていき、霧を掴むに等しい所業を行おうとしていたことに気付かされる。そこで我々は論理という真空の如く澄み切った虚像を捨て日常会話という現実へと回帰するのであった。

しかしここで気になるのは、我々は論理をどこまで捨て去って良いのか、何か必要なものだから用意していたのではなかったのだろうか、ということである。論理をどういうものとして扱えば我々は再び摩擦のない氷上へと迷い込むことを防ぐことが出来るのだろうか。もし本当に論理という理想が砂上の楼閣に過ぎないであるのならばどうして人類はそれを生み出し追い求め続けているのだろうか。

歴史を辿ってみると哲学の始祖と言っても過言ではない古代ギリシアプラトンの時代からイデアという形で理想が求められてきた。しかもイデアという観念を用いるのであれば、それらは最早現実に存在することを諦められている。神の国のようなイデア界にのみ存在する究極の一般形・理想形、そこまでしてそれを想定したくなってしまうのはなぜなのだろうか。

背理法的に、理想的・一般的概念のない世界を想定してみよう。「紙」のない世界。「人」のない世界。「世界」のない世界。こう考えてみると案外問題はクリアになってくる。そういえば我々は言語を用いて様々なものを一般化して集合を形成することによって世界に輪郭を与えていたのであった。世界に溢れるものを区別して、類似点と相違点を洗い出して、似たものを集めて一つの名前を付けていくことによって漸く、平坦だった世界に厚みが出るのだ。

我々が言語を用いて世界を形成しているということを受け容れた瞬間に、実は理想という幻想の霧に囚われていたのだ。初めはただ散逸的な世界にまとまりを作るために行っていた一般化という行い自体を一般化して、あらゆる物事を一般化しようという好奇心が湧いてしまった。色や形が異なっても一口に「紙」と呼べてしまうように混沌とした世界を何か一言、一つの概念で表せるのではないかという欲望が現れてしまった。

そしてそれを日常会話に適用したのが論理ということになるのだろう。様々な形態をとる日常会話をひとまとめに出来る論理というものがあるのではないか。しかし論理という概念には蠱惑的で罪深い特徴が与えられていた。それは完全であり、例外を許さないということである。例えば「紙」ならば濡らしてぐちゃぐちゃになったものや羊皮紙及び電子ペーパーなど状況によっては「紙」と呼べて、状況によってはそう呼べないような周縁概念が許容されている。我々が初めに用いていた概念形成はこのようなものであったはずだ。しかし論理は異なる。論理は生まれながらにして状況依存性を許さない。場合によっては異なるようなものを論理とは呼ばず、その場合分けをも内包した概念を目指してしまう。何故論理というものにそこまでの過度な重圧と期待がかけられているのだろうか。それは恐らく論理が完全であれば他の不完全すべてが許容されるからなのだろう。つまり言語の不完全さをも包摂した完全な論理が存在するのであれば、日常の一見して例外だらけの言語使用も突き詰めて遡れば完全に説明をつけることが出来るようになるのだ。

つまるところ、論理というものは一般化による概念形成という行いをあらゆる物事に適用しようとしたために生み出されたものであり、そしてその行いが完遂され得ないということが明らかにされてきたのだった。しかしだからといって論理というものが無意味になるというわけではないだろう。厳密な北極が定められなくても北を目指して歩くことに意味があるように、完全なものとしての論理が存在していなくとも、ぼやけた境界に囲まれた論理という概念を羅針盤として用いることが出来るのだろう。

印象深い比喩が可能であれば、最高度に普遍的な事態を覚知したと誤解するのだ。(「哲学探究」§104 L.Wittgenstein 著, 鬼界彰夫 訳)