作文練習

真理を記載しています。

男装をしている

自然科学、特に物理学の考え方として、「過去の経験から帰納して一般法則を見出す」というものがある。一度でもリンゴが木から浮かび上がっていたら、万有引力の法則は現代にまで生き残っていないだろう。いつだってリンゴは木から落ちて、月は地球に向かって落ち続けている、その事実から一般法則として万有引力の法則が見出された。ただし、世界のすべての現象を説明できる完璧な理論は未だ存在せず、いつだって例外が存在する。例外が見出されるたびにそれを包含するような理論が打ち立てられて、完璧な理論へ近づこうとする。

日常生活でもこれに近いことが頻繁に行われる。我々は過去の経験から未来に起こることを予想して生きている。「炎に触れると火傷する」といったようなある種当然のことすら未来予測である。今この瞬間だけ、炎に触れても火傷しないことになっていてもおかしくはないのだから。このような例は枚挙に暇がないだろう。「夜が明ければ朝になる」「食事をすると空腹が紛れる」「見えているものは存在している」「犬は大きな声で吠える」「猫は夜に喚く」「背の高い人は足が速い」「老人は歩くのが遅い」「日本人は勤勉だ」「男性は力持ちだ」「女性は料理が巧い」「白人には日本語が通じない」「スカートを履いている人は女性だ」「髭の生えている人は男性だ」等々。これらは非常に「科学的」に導き出された結論ということになる。

日常生活の帰納と自然科学の帰納で異なるのは、だから例外への対処なのだ。自然科学に於いては、先にも述べた通り例外を放置しておくことはない。例外を見つければ諸手を挙げて喜び、より一般的な理論を打ち立てる好機と捉える。日常生活の帰納ではこのようなことは殆ど起こらない。「夜に喚かない猫」を見つけてきたとしても、「珍しいね」と言われて終わりになってしまう。日常生活での「一般理論」は100%ではなく99%当てはまるもので十分なのだ。1%が排除されてしまうのは不可避の事象なのだ。

差別というものはきっとそこから生まれる。夜を騒がしくするという仕事があるとき、「猫」を集めてくれば十分だと思ってしまう。たとえそこに「夜に喚かない猫」が紛れていたとしても、「夜に大きな声で吠える犬」が存在していたとしても。集団を定義してその統計的な特徴から判断を下すのは非常に合理的で、効率的なのだ。しかしそこで個人の資質は無視されてしまう。肩書が資質を凌駕してくるその時に差別が生まれている。

「では犬と猫の区別がなくなれば良いということか」と言われるとそうではない(なくなっても良いが)。夜を騒がしくしたければ、「夜に騒げる奴」を連れてくれば良い。それが犬だろうと猫だろうと虫だろうと構わないし、結果として猫しか集まらなくても良い。そのくらいの労を惜しむ世の中であるならば、差別の横行する世界でも仕方ない。

多分私が気に食わないのは猫とか犬とかいう括りが粗すぎることなのだ。猫一匹と犬一匹を連れてきて比較したときに、集団としての統計情報を比較したときと全く逆の結果になっても不思議ではない。しかし、粗いからこそ便利なのだ。二値的に、不連続な量として区別でき、悩みの介在する余地が少ない。加えて見た目で判断することが非常に容易なのだ。「鳴き声の大きさオーディション」など開催するまでもなく、見た目が猫の奴を連れてくるのが一番簡単である。

少なくとも私はそういう安易な判断をあまり受けたくない。まずは男装*1をやめようかなと思っている。

 

*1:男性的な装いの意でこれを使うのは無理があるみたい