作文練習

真理を記載しています。

一般的な特殊性

「誰もが皆オンリーワン」というのは非常な皮肉である。アイデンティティの確立のためか知らないが、あらゆる他人との差異を探して「自分は誰かと同じではなく自分自身なのだ」と高らかに宣言した瞬間にその特殊性こそが人類共通であったことに気付かされる。

独我論の素朴な段階では「私の心象は他人には理解できない」と言うことが出来る。勿論これは一般的な事柄として理解される。というよりこれ自体が「他人の心象を私は理解したことがない」という事実から演繹されている。私に分からないのだから他人にも分からない。

もう少し進めてみると「心象は他人に生じていない」と言える。そもそも私が知っている心象というものは私の心象でしかないし、他人の心象なんて非常に希薄かつ確かめようのないものである。世界で私だけが心象の何たるかを知っていて、その延長として他人の心象が想定される。しかし、この主張は他人に理解された瞬間に一般性を帯びる。

誰しも自分の心象しか経験したことがなく、他人の心象はそこからの想像である。しかし残念ながらこの主張はこの手の一般化を拒まなくてはならない。何故ならこれが独我論の文脈で語られるからだ。他人の心象とか以前に他人という概念、周囲の事物、世界そのものが私の認識、即ち心象を起点にして始まっており、この特殊性は揺るがない。明らかに私の心象だけが他人の心象とは違う形をとっていて、何故なら私の心象は他人の心象と異なり直に感じられるものであるから。他人が殴られるのと自分が殴られるのでは全然違う。だって自分が殴られた時だけ本当に「痛い」のだから。このように主張したいのだから、他人も同じようであるなどと言われてしまっては困る。

故にこの主張は理解不能になる。他人に伝えて、理解されて、他人が同じことを主張し始めたとしても、それは全くの勘違いで、私は私の特殊性を主張しているのにそいつはそいつの特殊性として理解してしまっており、そう理解するほかないからだ。私自身も似た類の文章を読んで、そのように誤解したからこのように主張できる。故にこの文章も理解され得ない*1。誤解されることでしか伝わらない主張となる。

*1:仮に1秒後の自分であっても、その時の私の特殊性を理解できない