作文練習

真理を記載しています。

誕生日

誕生日を祝われるのが苦手だ。それ故にある時期から能動的に誕生日を口外しないようにしている程だ。誕生日を祝われた瞬間から祝ってくれた相手の誕生日を祝わなくてはいけないという呪いが私に生じる。多分それが嫌なんだ。

しかしそんな私は他人の誕生日を祝うのが好きでもある。勿論それは相手に同様の呪いをかけようとしている訳ではない。私は自分の誕生日を祝われたくないからだ。もっと単純な、善意としか呼べないようなものに私は衝き動かされる。

これは誕生日に限った話ではなく、日常のあらゆる場面で生じる。他人に何かをしてもらうことを忌避してしまう。他人に助けを求めるという手段を可能な限り取らないようにしてしまう。それは助けられた相手に負い目を感じてしまうから。何かしらで借りを返さなくてはと強く思ってしまう*1。一方で自分が他人を助けるのは良い。そこに見返りを要求しようという思いは、少なくとも助けようという衝動が発生したその瞬間には、存在していない。

他人も同じなのではないか、と考えることもある。他人も見返りを求めて自分を助けているわけではないだろう、と。しかしそういう考え方があることを理解しても行動には反映されない。何故なのか。

考えられる可能性として一つは、そもそも私自身無意識で見返りを求めているというものだ。無意識のことなので私自身による追求は難しいが、どうもそれではない気がする。そう信じたい。

或いは完全なる善性の人間なのかもしれない。利己よりも利他を優先する聖人なのだ。しかしこれも違う気がする。というか助けてもらうことは利他に反しない。加えて私は究極的には自己中心的な思想を持っていることを自認しているので聖人にはなれない。そもそもいついかなる時でも他人を助けるわけではない。道端で知らない人間が倒れていても無視するタイプの人間だ。

こうなると考えられるのはあと一つで、私は他人が自分と同じようであると考えていないということだ。「人にされて嫌なことを人にしないようにしましょう」という道徳律の前提となるものをこの点において捨てているのだ*2。「どうやら他人は"私と違って"人から助けられることを喜ぶようだから助けたい」と思っているのではないだろうか。

 

ここまで書いて天啓*3が訪れたので結論を変える。私は多分大した助けにもならないのに負い目を感じるのが嫌なのだろう。自分が出来ることを他人に外注して負債を背負う必要がないと思っているのではないか。誕生日という日を大して祝うべきものでもないと思っているから祝われた際のデメリットの方が大きく感じてしまうのではないか。つまり先程の議論の修正として「どうやら他人は人から助けられることを"私以上に"喜ぶようだから助けたい」というのが真実に近そうだ。

誕生日は祝いあった方が楽しいし、人は助け合った方が良いことは理解している。その方が皆幸せだし効率的だし、私もそういう社会で生きていきたい。そう願っている一方で私の根底に巣食う孤独な個人主義が私を明快な不幸の道へと誘っているのだ。

*1:他人と同居できない理由の一つはこれだ

*2:ある種の哲学をするにあたって「他人と自分は同じ」という固定観念を取り払う必要があった弊害

*3:そうは言っても完全に助けを必要としていない訳ではないよな、というもの