作文練習

真理を記載しています。

If I were a bird,

"If I were a bird,"のような表現を仮定法過去を習った段階で目にしたことがあるかと思うが、今回はそのようなことが起こりうるのかを考えてみたい。

まず、"If I were a bird,"と言う時、「人間として生まれてその記憶を持ったまま鳥へと変化したら」、というような意味ではなく、「鳥として生まれた存在であったら」という意味として解釈を進めていきたい。前者の意味の場合は人間が鳥に変化することが可能なのかというところに焦点が当たってしまう気がする。仮定法過去の持つ意味合いも後者のものに近いのではないかと思う。

 

あなたがもし鳥として生を享けたらどのようなことを考えて生きているだろうか。「大空を自由に飛べて気持ちがいい」だとか、「目についた虫を食べたい」だとか考えるのだろうか。しかしそんなことは有り得ない、と敢えて断言しよう。何故なら鳥は思考しない。言語を持たないものに思考はないからだ。

ここで提示された命題、「言語を持たないものに思考はない」は真なのだろうか。「言語とは」「思考とは」みたいな話に踏み込むと面倒くさいのでフワッと話を進めていきたい。

 

背理法的に考えてみよう。「言語を持たないが思考はある」という存在にどのような不都合が生じるだろうか。例えば上述した「大空を自由に飛べて気持ちがいい」というようなことは思考されるのであろうか。言語を持たないものは恐らく事物の区別がとても曖昧なはずだ。我々は言葉によって事物を区別し、分類し、共通点と相違点を見出している。ただ視覚に青く映るものをいちいち「空」と言語なき者は思うのだろうか。「青空」「曇り空」「夕空」「夜空」これらの共通項を見出し、「空」という抽象概念を形成しているだろうか。まして「自由」や「気持ちがいい」といった抽象概念をどのように捉えることが出来るだろうか。

 

しかしこれは如何にも言葉を持つ者らしい思考であると批判されるかもしれない。確かに言葉がなければ文節化することは出来ないが、しかしそんな必要はなく、言葉を持たない者は全体として思考しているのだ。「空」も「自由」も「気持ちがいい」もなくても「大空を自由に飛べて気持ちがいい」はあるのだ、というような批判を。

確かに我々も常に全てを文節化している訳ではない。夕焼けを眺めている時は殆ど何も考えていないが、後になってそれを語るときは「夕焼け を 見て 感動した」と言ってしまうようなことはある。しかしそれこそが「思考」なのではないかと言いたくなる*1。刹那的な感情や情動のようなものは言語と関係なく存在してるのかもしれないが、それを後から整理できるかが肝要に思われる。「鳥として生まれた存在」は鳥として様々な感情を抱くが、しかしそれらが整理されることはない。「鳥として生まれた存在」は自身が鳥であることすら認識していない。どのような存在も「私は鳥である」と主張することは出来ないのだ。

 

だからこそ、「鳥であったならば」と思わずにいられないのかもしれない。

*1:結局定義論かよ