作文練習

真理を記載しています。

比喩について

「科学は一種の宗教である」的な言説を聞いたことがあるかと思う。そもそも科学とは「他人の信じることを信じる」という実践であるから、原理的に信仰を内包しているとも言える*1。特に自然科学に於いて、個人的にかなり信仰くさいと思われるのは「ない」ものを「ある」と考えることである。

 

目の前にリンゴがある、というのは疑っていても仕方のないように思われる。しかし炭素原子がある、というのは「本当」か?という気分になる。月や太陽があるのは当然だが、やたらデカい望遠鏡でしか見えない数百万光年先の恒星が「本当」に存在しているかはよく分からない。我々が「本当」に測定しているのは長さや角度だけで、質量や温度なんて虚構じゃないのか。

このような疑念は半分正しくて半分誤りだ。自然科学に於けるそういった見慣れない概念は基本的に比喩によって成り立っている。リンゴのようなよく知っているものと似た性質(「質量がある」など)を持った存在として原子を想定する。太陽のような性質を持ったものとして遥か彼方の恒星を想定する。そしてそれで観測に説明がつけば良いというのが自然科学の姿勢なのだろう。

量子は粒子の性質と波動の性質を持つものとして説明される。初学者には中々イメージがつき辛く難しい概念の様に思われるのだが、それは量子という概念が最早イメージ出来ることを諦めているからだろう。粒子という比喩によって説明できる現象は粒子という比喩によって説明する。波動という比喩によって説明できる現象は波動という比喩によって説明する。それで説明できる。それで良い。「本当」はどういう姿をしているのかなんて気にしていないのだ。

 

比喩といえば、哲学探究が読者諸兄にも思い返されるだろう。探究による論考批判の一つとして、論考は比喩を見つけただけである、という類のものがある。論考は写像という概念を用いて世界と論理を関係づけようとした試みであるが、しかし写像というのは比喩に過ぎないことを失念していた。比喩は「そのもの」ではないから比喩であることが頭から抜け落ちてしまっていた。「氷のように冷たい手先」はしかし温めたところで氷のようには融けない。いくら氷の性質を調べたところで手先については何も分からないのだ。

比喩はある面で似た性質を持つがある面では異なる性質を持つ二者に用いることが出来るのであって、全ての面で似た性質を持っていたらそれは単に同一のものとなってしまう。だから写像という比喩に固執して、写像という比喩によって全てを説明しようという論考の試みに於いては、写像という比喩が当てはまらないような点も捻じ曲げて、さも当てはまるかのようにしてしまった。比喩のために本質を歪めてしまった点に論考の誤りがある、と探究に於いて述べられる。

 

量子が粒子と波動の二つの比喩で述べられているのはこのためである。一つの比喩で語れないものは二つの比喩で語れば良い。単一の方法ですべてを説明しようという試みにはロマンがあるが、往々にして不可能であることを受け容れなくてはならない。

*1:極端なことを言うと「世界」とか「時間」とかの観念を含んでいる時点で宗教なのだ。我々はそういった幻想に立脚して自己を形成しているのだから。