作文練習

真理を記載しています。

死ぬのが怖い

私は生まれてこの方特定の宗教を信仰したことがない。神社へ参拝したり仏壇に手を合わせたり聖歌を歌ったりしたことはあるが、少なくとも私はそれを信仰と呼ぶと思っていない。勿論私が宗教を信仰するということを重く捉え過ぎているというのはあって、恐らく信仰を自覚している人と比較しても行っている儀礼的行為の数に大した差があるわけではないのかもしれない。しかし問題なのは私が救われないということなのだ。

宗教の大きな役割の一つとして死への恐怖の緩和というものがあると思う。私が知っている程度のメジャーな宗教に限ってかもしれないが、大概の宗教には葬儀や墓に関しての仕来りがあり、加えて天国の存在や輪廻転生などの死後に関しての設定が作られている。死に対する恐怖の源泉は未知と終焉であり、死の正体が明らかにされ、死が終焉を意味しないと分かるのであれば恐れる必要などないのだ。然して人間たちは善き死後を過ごすために生前に善行を積み、自身の死に納得する。

幼いころから死を恐れてきた。自己の消失を想像して涙を流してきた。自身の死後も世界が回り続けることに耐えられなかった。しかしそんな私は宗教という救いを知らぬままに育った。信仰していたとしても救われていなかった可能性も十分考えられるが、いずれにせよ今更詮無し。私は自分が納得できる説明を見つけなくてはならないのだ。

最近気付いたことだが、私と同程度の信仰を持つ、つまり特定の宗教を信仰していない人間であっても、その多くはそれなりに死を受け容れているらしい。「ある程度年をとったら死んでもいい、むしろさっさと死にたい」だとか、「やりたいことをやりきったら死んでもいい」とか考えているらしい。私がこういった考え方を受け容れられないのは、偏に私が「死んだら何も残らない」と考えている*1ためであろう。

 

ここまで長々と私の苦悩を語ってきたが、実は最早大して悩んではいないのだ。私は既に一つの解決を見出している。それについて述べていく。

中学生の頃、数週間ほど日記をつけたことがあった。書いている時点から「こういうのは時間が経ってから読み返すと面白いんだよな」と思っていたのでかなり長い間読まずに放置していたが、先日引っ越しのタイミングで発掘されたので試みに読み返してみた*2。しかしそこで得られたのは予想外の感想だった。言ってしまえば「昔の自分ってこんなこと考えていたんだな」というありきたりな感想で、そしてそれは予想の範疇であったが、しかし「昔の自分」と「現在の自分」が別の存在であることをこんなにも強く痛感させられると思っていなかった。そこに綴られているエピソードや想いは確かにかつて自身に存在していたものなのだが、思考様式や語り口が異なっているためか大きな違和感がある。いわば日記を書いていた当時の自分の思考を現在の自分には、つまり誰にも再現できなくなってしまっているのだ。有り体に言って、当時の私は死んでしまったのではないだろうか。

この喪失感を私はうまく言葉に出来ないのだが、何とか絞り出してみよう。「我思う~」ではないが、私は「私」を形作る上で現在の自分の意識というのが非常に重要だと思っている*3。前半で述べたことの換言だが、私が死を恐れる時、これが失われることを恐れているのだ。未来で大成功するはずの自分が失われるのが惜しいとかいうことでは決してない。しかし「これ」は失われていた。時間の経過によって十数年前の「私」がその時抱いていた感情・感覚・思考・嗜好すべてが失われ、日記を媒介して「現在の私」という他人に鑑賞されているのだ。

これを突き詰めて考えると、もっと短いスパンで自分は失われている。昨日の24時間の思考を全て思い返せる人間はいないだろう*4。私は死に続けている。最も恐れていることを現在進行形で体感しているのだ。であれば、死は最早未知ではないし、今更忌避すべきものではない。生物としての「死」がもたらすものは自己の消失というより未来の自己の消失なのだ。しかし、未来の自分などというまだ存在していない上に「他人」であるものがどうなろうと知ったことではないではないか。

 

以上のような思考を経ると信仰のない私も死ぬことが出来る。しかし現在のところこれは理論に過ぎず、自然にそう思われるようなものではない。自分自身で信じられていない。というのもそれが出来てしまった場合、私は少なくとも能動的に生きようという意欲を失ってしまうのだ。未来を計画しながら生きることも出来なくなるだろう。結局現在のところ理屈と関係なく死にたくないので、上記のような思考はしないようにしている。でも交通事故とかで突然死ぬ場合は死ぬ直前にこれを唱えて自分を納得させなければならないよなあ。

*1:このように考えるに至った過程はいずれ書くかもしれない

*2:引っ越し準備は遅延した

*3:脳を機械に置換されて、客観的な行動は変わらないが意識の存在しない自分を思い浮かべてみよ

*4:いたとしても思い返すのに24時間かかってしまう。更に言えばいたとしても関係ないのだ。私自身がそうでないのだから