作文練習

真理を記載しています。

体重

最近、体重計を購入した。元々体重を定期的に計量するという習慣のなかった私なので(寧ろ多くの人間にそのような習慣があったことに一時は驚かされたが)、この数年は自宅に体重計のない生活を送っていたのだ。しかし自分の記録を残していくことを好む私にとって日々の体重の推移のデータは垂涎ものであろうと思われるし(特に昨今の体重計はスマホアプリとの連携でデータの蓄積が容易である)、加えて現在の体重が少し気になる特別の事情があったのだ。

先日私は一週間ほど米国に滞在していた。私の米国に対する偏見として、比較的に健康管理への意識が高く(実際食品のパッケージにカロリーが大きく表記されており驚いた)、その裏返しとして少しでも気が緩むと瞬時に肥満体系へと凋落していってしまう、というものがある。平素は米と納豆と豆腐を主な食事としている私ではあるが、米国滞在中にそのような食事が摂ることは難しく、抑々ハンバーガーやピザのような米国を代表する高カロリー食も好物であるため、寝ても覚めても高カロリーという滞在生活が容易に想像され、出国の際は痩躯な私が帰国の折には一転肥満体型となっているなどという事態がないでもなかった。

しかし、終わってみると想像の全く逆で、滞在中の私は野菜と果物のみを摂取するという低カロリー生活を送っていた。というのも、米国は前評判から分かっていたもののやはり物価が高く、加えて不運なことに近年稀に見る円安が重なってしまい、レストランのメニューのドル表記の金額を円に直すたびに震え上がってしまうような事態となっていた。そのためレストランでの食事は極力控え、近所にあったスーパーで食品を購入し、凌いでいこうという判断に至った。しかしここでサンドイッチでも購入しようと思えばそれもやはり日本の価格と比べると数倍に達し、元の木阿弥ということになってしまうので、ホテル暮らしで調理器具もない私は、生のまま口に入れられるサラダとフルーツ、そして元来嫌いなパンを僅かに摂取していく生活へと陥ったのであった。

そんな訳で痩躯な私が超痩躯になって帰ってきたのではないかという予測が私の中にあり、それを実証してみたくなった。期待に胸を膨らませながらネットショッピングで体重計を購入し、翌日届いたそれへと一歩二歩と踏み込んでいたわけだったがしかし、体重は数か月前に銭湯で量った際のものと殆ど変わっていなかった。スマホ連携可能な機種には不可避に搭載されていた機能を用いて体脂肪率を見ると僅かに5 %であり、思えばこれ以上痩せる要素がなかったのだと思い至った。

私は軽く、そして兎に角軽い。風で吹けば飛んで行ってしまうような軽さなのだ。しかしこの軽さは物理的なものだけでなく、人間的にもそうなのだ。それはまるで戦場ヶ原ひたぎのように。

戦場ヶ原ひたぎは言わずもがな西尾維新が著した小説「化物語」の登場人物で、体重を失った人間として登場した。彼女が体重を失ってしまったのは、彼女が自身に内在する重苦しい感情、「思い(重み)」を受け止めることをやめてしまったことに起因しており、しかし作中でそれを反省し自身の心持ちを変えることによって彼女は独りで勝手に助かっていった。

私の軽さは例えば誕生日に顕れる。私はある頃を境に自分の誕生日を極力人に言わないようになった。これは率直に言って人から自分の誕生日を祝われたくないからであり、そしてそれは人からの祝福を受け止めきれる自信がないからである。人が私の誕生日を祝うために割いた労力に見合うほど自分が喜べる自信がないというのが一つで、そしてまたその人が私が抱くだろうと期待した分の喜びをその人の誕生日に私が与える自信がないという意味でもある。受けたものは返すという規範を、そもそも人から恩を受けることを回避するという形で遵守しようとしている。これは旅行の土産でも全く同様で、故に先日の渡米の際にも土産を殆ど購入しなかった。私自身が人から土産を貰ってその人が土産を購入するのに費やした手間と金銭に見合うほど嬉しかったことがない。

人と同居している時は家事を人に任せるのが嫌だった。その出来次第ではしてもらったことに感謝できないからだ。逆に自分が人の分まで家事をするのも嫌で、それは人に自分と同じ思いを抱かせてると思ってしまうからだ。

私は無償の愛のようなものを畏れ、恐れている。正直私はそれが創作の中にしか存在しない代物でないかと未だに疑っており、もしそんなものがあるのだとして、それをこの身に受けてしまったら、私は永劫弁済出来ないのではなかろうか。そしてそうなるのが嫌だから私自身も人にある程度以上の愛着を懐かない。

私が人の思いを受け止めるためにはかなりの増量が必要そうで、一週間毎日体重計に乗り続けているもののまだその兆候は見られていない。