作文練習

真理を記載しています。

依代

自室の整理が苦手だ。

幼いころからそうであったが、独り暮らしを機にその原因の一端に気付くことが出来た。要はものを捨てることが苦手なのだ。だから引っ越し当初は比較的整理された部屋を保っていたのに2年以上経過した現在は目も当てられないのだ。

といっても、ゴミ屋敷になるような常軌を逸した性分ではなく、日常的に排出されるゴミ、生ゴミとかお菓子の包装とか、そういったものは平然と捨てている。私の捨てられないものは、だから思い出の依代なのだ。

昔プレイしたゲームとか、友達からの年賀状とか、お土産の置物だったり、特定の酒瓶だったりを、しかし私は捨てたくないのだ。私はどうしようもなく過去と郷愁に生きる人間で、ふとした時に物品を媒介して記憶を蘇らせるその瞬間を、愛してやまない。本当はだからレシートとかチケットとかも全て保存しておきたいのだけれど、細々している上に依代として弱いために諦めている。その代わりとしてあらゆる支払いをクレジットカード決済にして明細を残すことにしている。何を買ったかまでは不明だが、自動的に記録してくれるのだから有難い。睡眠の記録を付けているのも似たような理由だ*1

私はきっと、そうやって過去の自分の輪郭を少しでも残し、未来に自分を復元してもらうことに望みを託しているのかもしれない。現在の自分が考えていることなんて明日には、ともすると十秒後には忘れ去ってしまい、則ち誰にもその存在を認知されなくなってしまう。いなくなったそいつを懐かしんであげられるのは自分だけだから、未来の自分が今の自分を思い出す縁を少しでも遺しておきたいのかもしれない。

 

最近、私は長年縁遠かった美術館に何度か足を運ぶようになり、適当な新書で絵画知識も入れて、少しは楽しめるようになってきた。先日訪れた美術館は中世・近代日本の美術作品の展示がメインで、最後に少し現代日本芸術家の作品が展示されているという構成だった。

そこで気付いたことに、前者の作品群より圧倒的に後者の作品群の方が私に刺さる率が高かったのだ。勿論、私が掛軸絵画の在り方とか水墨画とかに見慣れていなかったというのもかなり大きいとは思ったが、しかしこれは作品を通じて記憶が喚起されるか否かという点が分岐点となっているように感じられた。

例えば、中世絵画の中でも動物や人を描いたものに関して私に響くものはなかったが、荒ぶる滝を描いたものは自らが何処かで見てきた滝の迫力、現実感を鮮明に追体験させてくれるものであった。現代のものだと、街の様子を描いていても人の仕草や持ち物を描いていても、私に具体的な体験に囚われない非常に抽象的な情念のみを喚び起こしてくれるのであった。そういった作品を今後は探していきたい。

*1:このブログも、思想の記録という側面がある