作文練習

真理を記載しています。

宗教行為

宗教について問われたときに無宗教と多くの日本人が答えるが、神の存在を信じず一切の宗教的儀礼を行わない人間を無宗教と言うべきであって、初詣とかしている人間が無宗教と答えるのはおかしい、的な言説が昔から為されている。私自身も上記のような人間で、特別信仰している宗教がある訳ではないが、旅先で神社を見かけたら拝んでいくし困った時には神頼みする*1。そんな私は日常に於いてどれほど宗教的儀礼・実践を行っているのだろう。

上記したように神社に行ってお参りをするなどは完全に宗教儀礼であるだろう。墓参りをすることや葬式への参列なども間違いなさそうだ。結婚式はどうだろうか。結婚式を挙げるのは宗教っぽいが、参列するのは個人の信仰に関係なく単純に知人を祝うというだけな気がする。葬式が結婚式と異なるのは、葬式は参加した時点で死後の世界、或いは死者の存在的なことを僅かながらにも認めたことになり、宗教的信仰の疑惑から逃れられないのだ。一方で結婚式に参列するのはそういった超常的な現象を仮定せず、ただ単に現前している人間を祝うだけだ。いや、祝うというのももしかしたら宗教的儀礼に含まれるのだろうか。

ここで一度何が宗教的で何がそうでないかの線引きを考えてみよう。先程も触れたように超常的な現象を念頭に置いているかどうか、というのは一つ大きな指標となりそうだ。存在を確かめられていない神に対して有効性が確かめられていない方法で祈祷を捧げる神頼みもこの点で宗教的と言えるだろう。超常的、則ち反科学的と言って差し支えないだろう。誰しもがその存在を確かめることが出来るようなことを大まかに科学的というならば*2、特定の人間にしか分からないこと、特定の人間が本当に理解しているかどうかさえ確かめようがないことに基づいた行動をとるのが宗教的と言えそうだ。

立ち戻って、友人を祝うという行為は宗教的なのだろうか。友人そのものは他者からも確認をとれるものだが、祝うという行為が客観的にもたらす効用は何だろうか。勝手に友人の精神があることを想像してその空想上の精神に向かって働きかけようとしていないだろうか。

日常の他の行為にも目を向けてみよう。友人に話しかける*3などといったものは上述したように非常に宗教的な実践であることは明白だろう。勿論こうやって文章を書いていることも。食事を摂る際に「いただきます」などと言うことは当然宗教的だが、そもそも食事を摂ることは非宗教的なのか。食事を摂らないと死んでしまうのは客観的に明らかだ、と言うかもしれないが、では死を避ける理由は何か。食事以外にも様々な行動が短期的にも長期的にも死を避けるために行われるが、そもそも生を欲して死を忌み嫌うという考えに何の根拠もない。私や世界が存在しているかどうかも。

信心深い私は今日も眠りに就く。やがて目覚めることを信じて。

*1:改めて考えてみると神社で何かを願うようなことはあっても窮地で神頼みするような経験はないかもしれない

*2:勿論客観性を崇め奉るのも本当は宗教的だ

*3:命令する、とかだったら特定の音声に対して相手がその精神状態に関係なく行うであろう行動を期待してのことなのでこの水準では非宗教的かもしれない。

浪人して良かった

私は大学受験に於いて一度浪人した。

現役時代は本命校と滑り止め校の二つのみを受験し、滑り止め校には合格していたが、悩んだ末*1浪人して再び本命校を受験するという選択を採った。

その選択をして本当に良かったと今では思っている。勿論浪人当時は苦しかったが、結果的に本命校に合格して通うことが出来たし、もし滑り止め校に進学していたら一生そのことを引きずって生きる人生であったことだろう。大学に入ってからも、一浪していたおかげで、現役合格していった高校の友人等から一年先輩として様々な情報を仕入れることが出来た。何より一度目指した目標を諦めずに貫き通すという得難い経験が出来た。私のような人間が現役合格していたら、碌に挫折も経験しないまま社会人となって僅かな失敗からも立ち直れないような人間になっていただろう。浪人している間に抱いた様々な鬱屈とした感情も現在の人格形成に役立っており、本当に浪人していて良かったと思う。

 

上記のような浪人を賛美するような言説が浪人時代は嫌いだった。今でも嫌いだが当事者としての重みが当時にはあったように思われる。当時は直感的に抱いていたその重みを敢えて今言語化するのであれば、(せめて)未来の自分には自分の抱いている苦しみに共感してほしいというところだろう。

浪人期の苦しみの一つとして、自身の抱いている辛さを誰にも共感してもらえないという孤独があった*2。私は予備校に通っていたしそこに高校の友人も沢山いたので共感してもらえる人間は十分にいるように思われるが、浪人という選択に対してどのような思いを抱いているかはかなり個人差があり、人によっては浪人前提で受験勉強をしていたなどと宣うようなものもおり、自身の十字架は自身で背負うしかないということに浪人してから気付かされた。

そんな人間に対して、「その苦しみは後で報われるのは大丈夫だよ」というのは慰めにならない。寧ろ裏切りとも言うべき所業であろう。そもそも何をしようとどんな言葉をかけようと彼を慰めることは出来ない。彼は受験が終わるまで何があっても背負った十字架から解き放たれることはないのだ。

私にできることは、せめてその苦しみをなかったことにしないこと、苦しみを嫌なものだと認めてあげることだけだろう。だから当時の私は、未来の私と約束した。

「今後この浪人期の苦しみを決して肯定しない」と。

その約束を私は今でも守っている。

*1:元々浪人はせず滑り止めに行くつもりだったので、本当にかなり悩んで選択を翻した。

*2:「自分の人生に対して真剣に考えてくれるのは自分だけ」という孤独に気付いたのが丁度この頃であったため、より一層孤独感を強めていた。

好きなもの

「引っ越すとしたらどんなところが良い?」と訊かれたら「ベランダから空が見えるところ」と答える。

「山登ってて何が楽しいの?」と訊かれたら「空が見えること」と答える。

 

私は空に焦がれる。

 

雲一つない青空が好きだ。草原的なところで寝っ転がりながら青空を眺められたら良いなと思う。都内住みであることとか人目とか気温とかの影響で中々実行されることはなけれど。

雲がいくつか浮かんでいる空も良い。雲の形の変化を追っていく時間よりも幸せなことは人生の中でそうそう無いのではないかと思ってしまう。

夕暮れの空の何と美しいことか。きっと年に何百回と晴れた夕暮れを拝める日があるのだろうけど実際に見るのは年に十数回くらいしかないことが哀しい。その中でも時々、気温とか湿度が影響するのか知らないけど、どういう訳か格段に夕焼けの美しい日がある。都内にいるとあのグラデーションを完全に見渡すことが難しい。しかし、夕焼けの陰になっている民家が夕焼けを際立たせている時もある。そんな時は立ち止まってそれを眺めてしまうのだが、やはり人目を気にして暫くしたら立ち去ってしまう。

黄昏時を過ぎると夜が訪れる。しかしその直前の一瞬、日は完全に沈んでいるが迫りくる宵闇に空が完全には侵されていない時間がある。昼間の青空とはまた違った、藍に近いようなその色に染まった空、夕焼けを見ながら夕食の買い出しに行くとスーパーから出てきた時に不意に出くわすその空はしかし時に夕焼けを凌ぐほどの郷愁を私の胸の裡に生じさせる。

夜空は大して好きではない。

朝焼けは、現代人の活動時間的に夕焼けと比べて見るのが難しい。さりとて朝焼けには朝焼けにしかない得も言われぬ神々しさが宿っている。それはもしかしたらやはり気象的な問題で夕焼けとは見え方が違うのかもしれないし、或いは早朝の静寂に包まれる街の中で自分独りが眺めているという優越感に浸れるからかもしれない。しかし段々と明るくなっていくのは夕焼けと比べて風情がなく、日の出を迎えた瞬間から急激に冷めてしまうようなところがある。

 

山頂から眺める空にはまた違った良さがある。周囲の状況にも依るが、山頂から眺める山は地上からのそれに比べて圧倒的に広い。自分よりも下の方向に空が広がっているという状況は平地では得られない。どの方向を見ても空が山の端に縁どられているのも良い。

あまり海には寄り付かない人生を送ってきたが、海と空の境も良いと最近気付いた。特に理由はないがとても良い。

 

現状私の家のベランダからは通り向かいの建物しか見ることが出来ない。春の晴れた心地よい風の吹く日などはベランダで空を見ながら読書など出来ればどんなに良いかと思ってしまう。何気なく過ごした一日にふと時計を見て黄昏時であることに気付いた時は思わずベランダに出てしまうが、西日に照らされたビルが見えるだけだ。

時々たまらなく夕空を眺めたくなる日は自転車を駆って川へと出向く。川は都会の中で数少ない見渡す限り建物のない空間なのだ。スマホで日没時刻を調べてから所要時間から逆算して家を出る。時々しか通らないこの道を空模様を気にしながら通り抜けていく。川に着いて、暫く土手沿いに自転車を走らせているとやがて求めていたものが訪れる。自転車を停めて夕空を眺める。初めは太陽の周りだけ橙に染まっているのが、やがて横へ長く波及していく。その様を見ようと視線を動かしていくと川沿いにある工場のような施設やどこへ繋がっているかよく分からない高速道路が夕焼けの陰となって現れている。それらを眺めてから帰路に就く。

誕生日

誕生日を祝われるのが苦手だ。それ故にある時期から能動的に誕生日を口外しないようにしている程だ。誕生日を祝われた瞬間から祝ってくれた相手の誕生日を祝わなくてはいけないという呪いが私に生じる。多分それが嫌なんだ。

しかしそんな私は他人の誕生日を祝うのが好きでもある。勿論それは相手に同様の呪いをかけようとしている訳ではない。私は自分の誕生日を祝われたくないからだ。もっと単純な、善意としか呼べないようなものに私は衝き動かされる。

これは誕生日に限った話ではなく、日常のあらゆる場面で生じる。他人に何かをしてもらうことを忌避してしまう。他人に助けを求めるという手段を可能な限り取らないようにしてしまう。それは助けられた相手に負い目を感じてしまうから。何かしらで借りを返さなくてはと強く思ってしまう*1。一方で自分が他人を助けるのは良い。そこに見返りを要求しようという思いは、少なくとも助けようという衝動が発生したその瞬間には、存在していない。

他人も同じなのではないか、と考えることもある。他人も見返りを求めて自分を助けているわけではないだろう、と。しかしそういう考え方があることを理解しても行動には反映されない。何故なのか。

考えられる可能性として一つは、そもそも私自身無意識で見返りを求めているというものだ。無意識のことなので私自身による追求は難しいが、どうもそれではない気がする。そう信じたい。

或いは完全なる善性の人間なのかもしれない。利己よりも利他を優先する聖人なのだ。しかしこれも違う気がする。というか助けてもらうことは利他に反しない。加えて私は究極的には自己中心的な思想を持っていることを自認しているので聖人にはなれない。そもそもいついかなる時でも他人を助けるわけではない。道端で知らない人間が倒れていても無視するタイプの人間だ。

こうなると考えられるのはあと一つで、私は他人が自分と同じようであると考えていないということだ。「人にされて嫌なことを人にしないようにしましょう」という道徳律の前提となるものをこの点において捨てているのだ*2。「どうやら他人は"私と違って"人から助けられることを喜ぶようだから助けたい」と思っているのではないだろうか。

 

ここまで書いて天啓*3が訪れたので結論を変える。私は多分大した助けにもならないのに負い目を感じるのが嫌なのだろう。自分が出来ることを他人に外注して負債を背負う必要がないと思っているのではないか。誕生日という日を大して祝うべきものでもないと思っているから祝われた際のデメリットの方が大きく感じてしまうのではないか。つまり先程の議論の修正として「どうやら他人は人から助けられることを"私以上に"喜ぶようだから助けたい」というのが真実に近そうだ。

誕生日は祝いあった方が楽しいし、人は助け合った方が良いことは理解している。その方が皆幸せだし効率的だし、私もそういう社会で生きていきたい。そう願っている一方で私の根底に巣食う孤独な個人主義が私を明快な不幸の道へと誘っているのだ。

*1:他人と同居できない理由の一つはこれだ

*2:ある種の哲学をするにあたって「他人と自分は同じ」という固定観念を取り払う必要があった弊害

*3:そうは言っても完全に助けを必要としていない訳ではないよな、というもの

憂鬱

とても憂鬱だ。面接なんてしたくない。しかし内定は取りたい。

何故内定を取りたいかというと、さっさと就活を終わらせてしまいたいからだ。正直就職先に強い思い入れがあるわけではないし、ある程度の範囲で適当なところに入社できれば何でもよいような感じがある。もうこれ以上ES書きたくないし、面接もしたくないのだ。

何故面接をしたくないのだろう。何故ここまで憂鬱なのだろう。一つに上記したような状況があるため、このチャンスを逃すと半年以上先まで就活が続くことが確定してしまうのが理由にあるだろう。そして、面接がどう転ぶか不確定過ぎる。何を訊かれても答えられない気がする。そもそも社会や企業に対する理解が浅いため、何を答えるにせよ核心をつくことが出来ない気がする。そういう現実から目を背けたいがために面接対策から逃げている。逃げているのが分かっていて、このままではとてもヤバいことになるのもわかっているから尚のこと目を背けざるを得ない。そういう螺旋に落ちていっていることが怖い。憂鬱だ。

ある程度当該企業について調べた。ここまで企業研究したのは正直初めてだ。調べれば調べるほど内定取りたい気持ちが強くなり、プレッシャーが増した。しかし調べねば落ちてしまう。

こんなに当該企業とマッチしていて経歴も優秀な私を落とすはずが無くないか??という強気で不安を押しのける案も思いついたが、あまり上手くいかない。そのような思考をすることは出来るが、それはそれとして不安が襲ってくる。

どうせ落ちるのだから気楽に行こうみたいなマインドになろうかとも思ったが、気楽に行こうとするのはつまり受かろうとしているからで、根底にある内定への期待によってプレッシャーが消えることはない。

いやまあ多分プレッシャーを飼いならすみたいな方法が正しいのだろう。抹消しようとするのではなく、旧来の友として重圧を受け容れよう。自分が何に圧力を受けているのか明確にすることで、圧力は自分を後押しする方向に変わるに違いない。

そう思って文章を書き始めてみたけど、やはり効果はない。憂鬱だ。

このまま時が止まってしまえば良いのに、

日常会話の論理

「論理的な喋り方」「非論理的な喋り方」のような表現があることから分かるように、我々は会話の背景に論理の存在を措定し、それに忠実かどうかをある程度判断できると考えている。故に日常会話を精査していくことでその背後に潜む論理の姿を白日の下に晒すことが出来ると考えるのは自然なことだろう。しかしそうやって論理に迫ろうとすればするほど論理は遠ざかっていき、霧を掴むに等しい所業を行おうとしていたことに気付かされる。そこで我々は論理という真空の如く澄み切った虚像を捨て日常会話という現実へと回帰するのであった。

しかしここで気になるのは、我々は論理をどこまで捨て去って良いのか、何か必要なものだから用意していたのではなかったのだろうか、ということである。論理をどういうものとして扱えば我々は再び摩擦のない氷上へと迷い込むことを防ぐことが出来るのだろうか。もし本当に論理という理想が砂上の楼閣に過ぎないであるのならばどうして人類はそれを生み出し追い求め続けているのだろうか。

歴史を辿ってみると哲学の始祖と言っても過言ではない古代ギリシアプラトンの時代からイデアという形で理想が求められてきた。しかもイデアという観念を用いるのであれば、それらは最早現実に存在することを諦められている。神の国のようなイデア界にのみ存在する究極の一般形・理想形、そこまでしてそれを想定したくなってしまうのはなぜなのだろうか。

背理法的に、理想的・一般的概念のない世界を想定してみよう。「紙」のない世界。「人」のない世界。「世界」のない世界。こう考えてみると案外問題はクリアになってくる。そういえば我々は言語を用いて様々なものを一般化して集合を形成することによって世界に輪郭を与えていたのであった。世界に溢れるものを区別して、類似点と相違点を洗い出して、似たものを集めて一つの名前を付けていくことによって漸く、平坦だった世界に厚みが出るのだ。

我々が言語を用いて世界を形成しているということを受け容れた瞬間に、実は理想という幻想の霧に囚われていたのだ。初めはただ散逸的な世界にまとまりを作るために行っていた一般化という行い自体を一般化して、あらゆる物事を一般化しようという好奇心が湧いてしまった。色や形が異なっても一口に「紙」と呼べてしまうように混沌とした世界を何か一言、一つの概念で表せるのではないかという欲望が現れてしまった。

そしてそれを日常会話に適用したのが論理ということになるのだろう。様々な形態をとる日常会話をひとまとめに出来る論理というものがあるのではないか。しかし論理という概念には蠱惑的で罪深い特徴が与えられていた。それは完全であり、例外を許さないということである。例えば「紙」ならば濡らしてぐちゃぐちゃになったものや羊皮紙及び電子ペーパーなど状況によっては「紙」と呼べて、状況によってはそう呼べないような周縁概念が許容されている。我々が初めに用いていた概念形成はこのようなものであったはずだ。しかし論理は異なる。論理は生まれながらにして状況依存性を許さない。場合によっては異なるようなものを論理とは呼ばず、その場合分けをも内包した概念を目指してしまう。何故論理というものにそこまでの過度な重圧と期待がかけられているのだろうか。それは恐らく論理が完全であれば他の不完全すべてが許容されるからなのだろう。つまり言語の不完全さをも包摂した完全な論理が存在するのであれば、日常の一見して例外だらけの言語使用も突き詰めて遡れば完全に説明をつけることが出来るようになるのだ。

つまるところ、論理というものは一般化による概念形成という行いをあらゆる物事に適用しようとしたために生み出されたものであり、そしてその行いが完遂され得ないということが明らかにされてきたのだった。しかしだからといって論理というものが無意味になるというわけではないだろう。厳密な北極が定められなくても北を目指して歩くことに意味があるように、完全なものとしての論理が存在していなくとも、ぼやけた境界に囲まれた論理という概念を羅針盤として用いることが出来るのだろう。

印象深い比喩が可能であれば、最高度に普遍的な事態を覚知したと誤解するのだ。(「哲学探究」§104 L.Wittgenstein 著, 鬼界彰夫 訳)

 

代謝

切られる爪や抜け落ちる体毛、水に流される便などを見て、これらはさっきまで「自分」だったんだよなと思う。

毎日毎日自分を入れ替えながら生きていて、それでも自分は自分であると思い込んで生きている。仮に爪をすべて剝がしても体毛をすべて抜いてもそれは変わらない気がする。自分は自分のままだ。ここからじゃあどこまで取り除いたら自分じゃなくなるかという話になると砂山のパラドクスに陥っていく。しかしそもそも数年前と現在の自分を比べたら全く違う物質になっているのだから、パラドクスにすら至らない。別のものを同一と信じながら生きている。

切られる爪はどんな思いなのだろうという詩的な感情に襲われることもある。勿論爪や体毛に脳はなく言語もないのでそんな心配をする必要はないのだけれど。じゃあもし自分の身体が縦に二つに裂けて、どういう訳かそれぞれが独立に生命を維持できるようにされて、それぞれが独立に思考するようになった場合、左半身と右半身、どちらが自分なのだろうかと考えてしまうこともある。

実はこれに似た現象は割と頻繁に起こっている。ある思考体が複数の思考体へと別れていく現象、それが生殖だ。生殖は一種の代謝のように見ることが出来る。新しい身体から古い身体が剥がれ落ちていく工程。しかし爪を切る作業と異なるのは、古い身体の側も思考を持ち続け、しかもそいつは自身が本体だと考え続けることだ。

こういう面白い現象を体験したくて、世界中で生殖が流行っているのだと思う。