作文練習

真理を記載しています。

ナンセンスとの境界

論理哲学論考を読んで比較的初歩に理解できる主張として「文の成立」がある。
文は単語に分けることが出来、単語の組み合わせで文を生成することができる。生成された文について、真偽判定の出来る「有意味な文」かトートロジー若しくは矛盾といった「無意味な文」、そしてそれ以外の「ナンセンスな文」に区別される。
論考に対する初歩的な批判として、「有意味・無意味な文」と「ナンセンスな文」が如何にして区別されるのか明確でない、というものがある。そもそも「ナンセンスな文」とは「富士山が私の動いた歩く」のような単語を無作為に並べた文や「その犬は何Paですか?」のようなそれなりに秩序立てて単語が並んでいるものの意味を汲むことの出来ない文章を指す*1。意味を汲めるか汲めないかというのは直感的に判断できる気もするが、論考のように厳密に論理を組み立てていく中でここに根拠づけが為されないのは気持ち悪い。
我々が先程の文章に対してどのように意味を汲めない文だと判断したかを思い返してみよう。直感的と言ってしまえばそれまでだが、「富士山が私の動いた歩く」のような文は文法的な観点から説明できそうだ。しかし「その犬は何Paですか?」は簡単に文法的な批判を加えるのは難しそうだ。この文章の変なところは犬の圧力(?)を訊いてきているところだ。犬の重さや長さを訊くことは出来るが、圧力を訊くことは出来ないだろう。いや、もしかしたら非常に特殊な状況では成立するのではないだろうか。例えば動物病院を想定してみよう。動物病院の獣医が助手に尋ねる、「その犬は何Paですか?」、この時犬の血圧を尋ねているというような想定が出来そうな気もする。勿論これはこじつけだが、しかしこのような例は日常に溢れているのではないだろうか。
最近「草」*2という単語が市民権を得つつある。勿論植物としての草の用法ではなく、笑っていることを示す用法での「草」である。数年前と比べて大分広く使われるようになった一方で未だに日本語話者の9割に伝わらないような気がする。ここでその9割の人に対して「それは草」と言った時のことを想定する。会話の途中で突然、幹がないような背の低い植物について言及されたその人はその文を「ナンセンスな文」と判断してもおかしくはないだろう。
つまり普段どのような言葉を聞き、話しているか、どのような文脈の中で生きているかが「ナンセンスな文」との境界を引く*3。後期ウィトゲンシュタインの著書「哲学探究」でこのようなことが「生活形式」と呼ばれている。これは必ずしも言語体系に限らず、指差し行為や会話の終わりに手を叩くといった行動も含むような概念となっている。

*1:そして「時間は存在するか」のような哲学的問いがすべてこの「ナンセンスな文」であると喝破していくのが本筋となる

*2:最初は「滝」で書くつもりだったけど滝だったのでやめた

*3:論考序文の「思考の限界に線を引く」に対応する

一般的な特殊性

「誰もが皆オンリーワン」というのは非常な皮肉である。アイデンティティの確立のためか知らないが、あらゆる他人との差異を探して「自分は誰かと同じではなく自分自身なのだ」と高らかに宣言した瞬間にその特殊性こそが人類共通であったことに気付かされる。

独我論の素朴な段階では「私の心象は他人には理解できない」と言うことが出来る。勿論これは一般的な事柄として理解される。というよりこれ自体が「他人の心象を私は理解したことがない」という事実から演繹されている。私に分からないのだから他人にも分からない。

もう少し進めてみると「心象は他人に生じていない」と言える。そもそも私が知っている心象というものは私の心象でしかないし、他人の心象なんて非常に希薄かつ確かめようのないものである。世界で私だけが心象の何たるかを知っていて、その延長として他人の心象が想定される。しかし、この主張は他人に理解された瞬間に一般性を帯びる。

誰しも自分の心象しか経験したことがなく、他人の心象はそこからの想像である。しかし残念ながらこの主張はこの手の一般化を拒まなくてはならない。何故ならこれが独我論の文脈で語られるからだ。他人の心象とか以前に他人という概念、周囲の事物、世界そのものが私の認識、即ち心象を起点にして始まっており、この特殊性は揺るがない。明らかに私の心象だけが他人の心象とは違う形をとっていて、何故なら私の心象は他人の心象と異なり直に感じられるものであるから。他人が殴られるのと自分が殴られるのでは全然違う。だって自分が殴られた時だけ本当に「痛い」のだから。このように主張したいのだから、他人も同じようであるなどと言われてしまっては困る。

故にこの主張は理解不能になる。他人に伝えて、理解されて、他人が同じことを主張し始めたとしても、それは全くの勘違いで、私は私の特殊性を主張しているのにそいつはそいつの特殊性として理解してしまっており、そう理解するほかないからだ。私自身も似た類の文章を読んで、そのように誤解したからこのように主張できる。故にこの文章も理解され得ない*1。誤解されることでしか伝わらない主張となる。

*1:仮に1秒後の自分であっても、その時の私の特殊性を理解できない

男装をしている

自然科学、特に物理学の考え方として、「過去の経験から帰納して一般法則を見出す」というものがある。一度でもリンゴが木から浮かび上がっていたら、万有引力の法則は現代にまで生き残っていないだろう。いつだってリンゴは木から落ちて、月は地球に向かって落ち続けている、その事実から一般法則として万有引力の法則が見出された。ただし、世界のすべての現象を説明できる完璧な理論は未だ存在せず、いつだって例外が存在する。例外が見出されるたびにそれを包含するような理論が打ち立てられて、完璧な理論へ近づこうとする。

日常生活でもこれに近いことが頻繁に行われる。我々は過去の経験から未来に起こることを予想して生きている。「炎に触れると火傷する」といったようなある種当然のことすら未来予測である。今この瞬間だけ、炎に触れても火傷しないことになっていてもおかしくはないのだから。このような例は枚挙に暇がないだろう。「夜が明ければ朝になる」「食事をすると空腹が紛れる」「見えているものは存在している」「犬は大きな声で吠える」「猫は夜に喚く」「背の高い人は足が速い」「老人は歩くのが遅い」「日本人は勤勉だ」「男性は力持ちだ」「女性は料理が巧い」「白人には日本語が通じない」「スカートを履いている人は女性だ」「髭の生えている人は男性だ」等々。これらは非常に「科学的」に導き出された結論ということになる。

日常生活の帰納と自然科学の帰納で異なるのは、だから例外への対処なのだ。自然科学に於いては、先にも述べた通り例外を放置しておくことはない。例外を見つければ諸手を挙げて喜び、より一般的な理論を打ち立てる好機と捉える。日常生活の帰納ではこのようなことは殆ど起こらない。「夜に喚かない猫」を見つけてきたとしても、「珍しいね」と言われて終わりになってしまう。日常生活での「一般理論」は100%ではなく99%当てはまるもので十分なのだ。1%が排除されてしまうのは不可避の事象なのだ。

差別というものはきっとそこから生まれる。夜を騒がしくするという仕事があるとき、「猫」を集めてくれば十分だと思ってしまう。たとえそこに「夜に喚かない猫」が紛れていたとしても、「夜に大きな声で吠える犬」が存在していたとしても。集団を定義してその統計的な特徴から判断を下すのは非常に合理的で、効率的なのだ。しかしそこで個人の資質は無視されてしまう。肩書が資質を凌駕してくるその時に差別が生まれている。

「では犬と猫の区別がなくなれば良いということか」と言われるとそうではない(なくなっても良いが)。夜を騒がしくしたければ、「夜に騒げる奴」を連れてくれば良い。それが犬だろうと猫だろうと虫だろうと構わないし、結果として猫しか集まらなくても良い。そのくらいの労を惜しむ世の中であるならば、差別の横行する世界でも仕方ない。

多分私が気に食わないのは猫とか犬とかいう括りが粗すぎることなのだ。猫一匹と犬一匹を連れてきて比較したときに、集団としての統計情報を比較したときと全く逆の結果になっても不思議ではない。しかし、粗いからこそ便利なのだ。二値的に、不連続な量として区別でき、悩みの介在する余地が少ない。加えて見た目で判断することが非常に容易なのだ。「鳴き声の大きさオーディション」など開催するまでもなく、見た目が猫の奴を連れてくるのが一番簡単である。

少なくとも私はそういう安易な判断をあまり受けたくない。まずは男装*1をやめようかなと思っている。

 

*1:男性的な装いの意でこれを使うのは無理があるみたい

幸福論

ユートピア小説というジャンルがある。別に小説のジャンルに詳しくないからいつ頃流行ったとかはよく分からん。その名の通り人間たちの理想郷を描く小説なのだが、しかしそれらは往々にして国家権力等の支配によって強制的に幸せになっているだけなので、寧ろユートピアの対極であるディストピアだよね、みたいな描写をしているのが基本的かなと思う。ただ個人的にこれはこれで良いんじゃないかみたいなディストピアもあるので見ていきたい。先に断っておくと、以下に挙げる三つの小説は数年前に読んだものだしこの文章のためにわざわざ読み返すこともする気がないので、設定とか間違っているかもしれない。あと書評をしたい訳ではない。

 

"1984", George Orwell

1949年に出版された小説で、35年後の共産圏ってこんな感じになってんのかもね、的なテイストがある。小説内は徹底的な監視社会で、自宅内を含め街中のあらゆる場所に政府の監視カメラが設置されており、パノプティコン的な効果もあり常に見張られているように感じさせられる。実際反政府的な発言をしているとその人物はある日突然姿を消してしまう。加えて言語の改変による思想統制も行われており、反政府的な単語を削除したり、そもそも単語数を減らすことで思考能力の低下を狙ったりするという面白い試みが為されている。作中では常に戦争状態であり、そのためか国民の生活水準も低く、公務員である主人公ですら惨めな生活を送っている。

 

"Brave new world", Aldous Leonard Huxley

細かい設定は殆ど忘れたが、非常に面白いのは人間を人間の体外で作り出せる技術が確立されているということだ。新生児は政府の管理の下で生み出され、生まれながらにして階級分けが為されている。そしてその階級に見合った知能を持つように操作され、その階級であることに幸せを感じるように生み出されている。例えば、トップクラスの人間は管理者となるべく高い知能を有しており、下位の人間に支持を出すことに喜びを覚える。反対に底辺の人間は肉体労働者として最低限の知能のみを有し、他人から指示されて働き続けることに幸せを見出す。

 

"ハーモニー", 伊藤計劃

こちらは人間から人間が生まれる世界ではあるが、生まれた人間の健康の管理が政府によって為されている。ナノマシン的なものが体内に注入されており、体調不良などを診断してくれる。加えて精神的な不調なども察知してカウンセリングとかを勧めてくる。身体は国家の財産であり、それを意図的に損壊しようとすることはたとえ本人であっても許されない。なんやかんやあって最終的には人類全体から自我が奪われるという話になる。

 

以上三つ、どの世界に生きたいかと問われれば"Brave new world"になるだろう。次点で"ハーモニー"。というか"1984"に良いところが無さすぎる。監視社会なのを置いておいたとしても、生活水準が低く産業の成長もなく国民がその状態を幸福と考えていない*1

翻って"Brave new world"の世界では原理的に全ての人間が幸福なのだ。我々から見れば悲惨な環境で生きている人間も、それを幸せと感じるように作られている。人間が自分自身で幸福だと考えればそれは幸福だと言って差し支えないのではないか。勿論、作者はそういうつもりで書いていないのだろうとも思う。幸福を他人によって定義されて自分自身の幸福を追求する権利を奪われることは不幸である。加えて、知能を奪われているために更なる幸福を追求しようという発想すら奪われているというような考え方も出来そうだ。

ここで非常に重要なのは、これが小説の中の話であり、政府による知能操作が絶対に揺るがないという設定であるということである。私も、現実世界で客観的に見て恵まれない状況にある人間が、その生活しか知らないが故にその状態を幸せと捉えている、というような状況に出会ったら、それはあまり幸せではないのではないか、と考えてしまう。それを指摘することが当人にとっての短期的な不幸に繋がるにしても、より良い世界の存在を示すべきなのではないか。それはその人がいずれ自力でより良い世界の存在に気付き、そこにたどり着く可能性を持っているかもしれないからである。人は総て幸福な豚を脱して不幸なソクラテスへと堕ちていくべきなのだ。

 

なんか主張が矛盾し始めたからやめます。自分で幸福を望んでいるのかいないのかあやふやだったことに気づかされた。

ハーモニーはあんまり関係なかったわ。

*1:一方で"幸福である"とも考える必要があるのが"二重思考"という奴だ

所感

「何のために生きているのか」と問われると大概の人は答えに窮する。或いはそれらしい答えを並べることが出来る人もいるのだろうが、しかしそれは問われたから答えるのであって、常に生きる理由を掲げながら生と死の狭間を歩いているわけではない。多くの人々は無意識的に生きている。生きていたいとか死にたくないとかすら考えずに生きている。

だから、対処に困ってしまう。目の前に、生きている意味がないからという理由で自殺しようとしている人がいるとしたら、何と言葉をかければよいのだろう。その人は言うだろう、「成し遂げたいことがあるわけでもない」「この先の人生で楽しい・嬉しいことよりも辛い・苦しいことの方が多そうだ」「生きていたい訳でもないのに生きていると他人に迷惑がかかる」など。

私なんかは、なまじ共感できてしまう。立ち止まって考えてみるとどこにも積極的に生を延長していく理由なんてないように思えてしまう。その人に対して人生の素晴らしさを説くことなどできず、口を開いても虚無が湧き出てくるだけだ。

私は私の無力に涙を流す。その人の思想・思考には共感するばかりで一筋の反論すら思いつかない。しかしただ一点だけ異なる、生への理由なき渇望、その一点を説明することが出来ない。その無力。

きっと、だからかける言葉なんて元からないのだろう。そこで必要なのは論理や言葉ではなく経験、幸せな記憶なのであろう。外在的な動機付けなんてものはいつだって後付けの嘘で、内在的な衝動、過去の豊富な幸福の経験から生への肯定を得た人間たちが並べる空虚な出まかせに過ぎない。

私は幸福に人生を送ってきて、だから結論は決まっていて、たとえ手持ちのカードが同じだったとしても、その人とは辿り着く先が異なってしまう。それが分かっているから立ち尽くしてしまう。紙一重でいて大きな隔たりを生んでしまうこの差異に呆然としてしまう。そしてこれは同じカードを持ってすらいない人間たちには理解されないのだろうと思う。

論理が先か、言語が先か

論理という概念を編み出した人類は、言語を論理によって体系づけようと目論み、やがて論理に立脚して言語が存在しているという認識を生んだ。それに対して論理がアプリオリかどうかとか言って反駁することによって言語の復権が行われた。

「論理が先か、言語が先か」という命題は以上のような意味である。これに対するマイルドな解は「論理と言語が一緒になって発達してきた」的なことだろう。しかしそのような言い方をすると、それならば先に編み出された方があるのではないか、つまり時間的な意味での*1「論理が先か、言語が先か」という命題を立てられるのではないかという気がしてきてしまう。

原始的な言語・論理としてジェスチャーのようなものが想像される。ここでは指差しで考えてみよう。原始人が原始人に対して適当な場所を指さしている状況を想像してみる。ここに言語はあるのか。論理はあるのか。

そもそも我々はどういうものに対して言語的だとか論理的だとか思うのだっただろうか。例えば猫が互いに鳴いているのを見て、喋っているみたいと思うのはそれなりにロマンチックだが、言語とか論理とかがあるのかと問われると、流石にそうではないだろうと考える人が多数派なのではないだろうか。一方所謂外国語話者を見て同様に思う人は少数派なはずで、そこには言語と論理があるように思えてしまう。それはきっと人間の歴史の中でどういう訳か*2言葉が通じない人間との意思疎通がとれることを発見してきたからなのであり、一方で猫とはそれが発見されていないからなのであろう。

つまり少なくとも、言語と論理という概念を把握しているものが存在し、それが何らかの方法で特定の行動に言語とか論理とかが介在していることを認めることで言語や論理が存在することになる。

であれば、原始人の指差し行為に言語や論理が宿っているかを考えようとすると、そもそも彼らが言語や論理という概念を有していないことが問題となる。仮にその時代に現代の人間を送り込んだとしても、猫の言語を認知できないように、原始人の行動に言語や論理を見出すことは出来ないのではないか。そして意思疎通が可能になるほどに成熟してしまうと既に言語も論理も存在してしまうのでどちらが先だったかは不明瞭になってしまう*3

 

いずれ異星人を発見した際に、互いに互いの知性を認められると良いなあ。

*1:逆に上記の命題は「どちらが根本か」に近い

*2:つまり猫が鳴いているのと外国語で喋られるのは似たようなもので、ともすると全く意思疎通が不可能なことも有り得る。ものに名前がついていないことすら考えられるのだから。

*3:幼児の言語習得についても同様のことを考えられそう

老倉育と意味

"意味なんてないわよ。意味なんて嫌いだもの。"というのは終物語に於ける老倉育の発言の一つである。これを鑑賞して感傷に浸るだけで終わっても良いのだが、折角なのでこれの"意味"するところを考えてみよう。

まずは老倉育のキャラの柱である自己嫌悪から話を始めよう。彼女の自己嫌悪の原動力は自己実現の不足にある*1。(私が知る限りの)人間社会で生きていると絶えず自己実現を求められる。幼児期からスポーツ選手やアイドル等に憧れさせられるところから始まり、数年おきに将来の夢を訊かれ、大人になっても数年後数十年後の自己の在り方の展望を求められ続ける。更にはそういった肩書的な目標だけではなく、身の回りの人間との関わりの中で生まれてくる劣等感、そしてそれを克服することによって周囲の承認を得たいという欲求にも苛まれる。

資本主義に毒された人間たちは右肩上がりしか許さない。失敗は怠惰の産物であり、勤勉が成功を導くと信じ込んでいる。そしてそれを他人以上に自身に向けて強いてしまう。故に一歩一歩に、一挙手一投足に、一刻一秒に成長という"意味"を求めてしまう。無意味な行為は、自己実現に繋がらない行為は停滞であり後退であり糾弾されるべき行為なのだ。

しかし残念ながら努力は必ずしも報われないという救われない現実がある。建設的な日々を送っていても挫折は訪れてしまう。それが一度であれば、或いは再び歩みだせるかもしれない。しかし幾度も繰り返され、失望が蒸し返される内に恐ろしくなってしまうのではないだろうか。自身の歩むあらゆる道程が挫折という形で努力の否定へ繋がっているのではないか。そうであるならば、一歩も踏み出したくはない。"意味"のあることなんてしたくないし、自身の行動に"意味"があることが恐ろしい。

故に"意味"を忌み嫌う*2*3

*1:自己実現の具体的な内容としては人間関係の充足であるだろう。母親とのコミュニケーションのために数年費やし、友人に助けを求めるために一夏を費やしたもののいずれも失敗に終わっている。そしてそういった努力が結実しないことが切実な問題として彼女に迫っていることは作中の独白からも伺える。

*2:文脈的に老倉の発言の意図と合致しないとかありそうだけど、彼女の場合文脈を無視した突発的な感情の発露とかありそうなのでそういうことにしておいてください

*3:ところで物語シリーズに於いて怪異とは発現者の逃避の象徴として扱われており、重荷として切り捨てた想いが形を成して襲ってくる。だから怪異との闘いは基本的に自己解決が理想的であり、一人で勝手に助かるだけなのだ。老倉が物語ヒロインの中でも随一の重い過去を背負っているにも拘らず唯一怪異を発現しなかったのは、逐一自分の弱さと向き合い続けた結果なのだろう。