作文練習

真理を記載しています。

時間について

 「『時間』とは何か」という問いに対してあなたはどう答えるだろうか。今回私はこれに対して「『時間』は言葉だ」と答える。その過程について述べる。

 「世界五分前仮説」についてご存知だろうか。たとえ世界が五分前に(あなたや地球や宇宙も含めて、それぞれ数十年や数十億年分の歴史・記憶を持った存在として)生起したとして、それを確かめる術は、反証する術はない、という話だ。ここで揺さぶられるのは「過去」に対する絶対的な信頼である。「過去」に対して「現在」の我々が出来ることは、それがあったと信じることだけであり、「現在」に於ける信仰が「過去」(そして「過去」との類推から得られたであろう「未来」)という幻想を作り出していたのだと気付く。しかしこの幻想を幻想だからと言って切り捨ててしまうと大変なこととなってしまう。則ち自己同一性の崩壊である。

 「自己同一性」という単語の「同一」が何を指示しているのか改めて考えてみると、時間的連続性であることに気づかされる。つまり「昨日の私」と「今日の私」が「同一」ということだろう。これが崩壊するとなると、則ち「過去」及び「未来」の絶対性が揺らぎ、たとえば昨日<私>*1は私の友人のAさんだったかもしれない*2などと考え始めてしまうと、目的をもって生きるということが出来なくなってしまうだろう。明日には違う人間になってしまっているかもしれないのに(或いは世界ごと崩壊しているかもしれないのに)一年後に向けて努力したくなんてないだろう。

 だからこれは人が人らしく生きるための、自己同一性を信じて生きていくために要請されたことなのだ。これぞ形而上と言いたくなるような、概念であり、方便なのだ。「人間は根源的に時間的存在である」と牧瀬紅莉栖がハイデガーより引用していたが、このような文脈としても解釈できるだろう(ハイデガーがどのような文脈でそれを語ったのかしらないが)。人間*3が世界を認識する際*4にかなり根本的な段階で時間的連続性という意識が必要になってくる。見るたびに形が変わるものに「リンゴ」とか名づけようとも思わないだろうし、そもそも主体たる自身が(不連続に)変化していては何も語ることが出来ない。思考を始めることが出来ない。そういう思考以前の前提、いわば思考の骨組みが「時間」なのであり、だからこそ語り得ない。「語る」「名づける」といった行為自体が時間的連続性の前提のもとで成立しており、それを「時間」に対して適用しようとするのは謂わば公理に対して証明を付すようなものだ。

 しかし実際「時間」という名前がついている訳だ。この辺が自然言語の面白いところであり多くの人間を悩ませてきたところなのだろう。「問われなければそれについて分かっているが、問われた途端分からなくなってしまう」とウィトゲンシュタインアウグスティヌスより引用していたが、これもまあそういうことなのだろう。「時間」という言葉は存在して日常に使用しているが、それについて問うてしまうと答えがなくなってしまう。ただ単に言葉なのだ。

「『時間』とは何か」
「『時間』は言葉だ」*5

*1:永井均的な意味での<私>だが面倒くさいのでそれが意味するところについては割愛する

*2:これに気付くことが不可能という意味でこれは起こり得ない事象であるが

*3:現存在?

*4:存在企投?

*5:最初に結論をテキトーに書いてしまったせいで途中の議論が無理矢理ですね(批判避け)。