作文練習

真理を記載しています。

文の解釈について

L. Wittgenstein 著 「哲学探究」§80~§100を念頭に置いて

自分の講義レポートより転載

 

 哲学書を読むのが難しいのはなぜなのだろうか。つまり、哲学者の考えは既に文章という形で本人の手によって纏められているのだから、それを読めば当然その考えが理解できるべきではないのか。あまつさえ日本語による解説書も数多く出版されており、たとえ原著者が難解な文章を書いていたとしてもそれが平易に言い換えられているはずで、それでもなお更なる解説を必要とするのであろうか。裏返して言うのであれば、そこまでしなければ、そこまでしてもなお文章を理解できない、解釈できないというのは何故なのだろうか。

 一つ関連して思い出されることとして、辞書のことがある。幼いころ、辞書(国語辞典)というものの存在を知った私はそれを使えば日本語のすべてを理解できると思っていた。同時期に新しく知ったものとして国歌「君が代」があった私は、その詩に使われている単語が耳慣れないものであったこともあって、君が代の詩の単語一つ一つを辞書で調べていった。しかしまず最初の単語「君」で躓いた。さすがに「君が代」の「君」が二人称代名詞を指さないことは予感できていたため、その他の項目を読んでいったが、そこに書かれていた「君主」という単語、これも当時あまり耳なじみのない単語であった。仕方なしに「君主」の方のページを開いてみようとするが、そこではたと気付く。果たしてこの作業に終わりはあるのであろうか。どんな平易な単語にも必ず解説が記載されているこの本を用いて「究極的」な解釈を得ることは不可能なのではないだろうか、と。

 中高生の頃、英語に関して同様の誤解をしていた。英英辞典の存在を知って「これを(初学者の私が)読んでも英単語の意味が分からない(国語辞典と同様の理由で)」と憤った話もあるが、もう一つ、私は英文法に則って英語を使わなければならないと思い込んでいた。つまり英文法が英語よりも先に存在していると思い込んでいたのである(当然日本語にかんしても同様の誤解をしていたが、母語であるが故に一層自覚が難しかった)。

 これらの誤解を明確に言語化出来るようになったのは実はごく最近、大学四年生になって研究を始めたころであった。とかく世の中にはルールがあって世界はルールに則って回っていると考えてしまいがちな私は、物理法則に関しても、法則が先で現象が後というような思い込みをしていたのであった(勿論それが間違っていることを「知って」はいた)が、研究の最前線に於いて、未知の現象に新しい説明がつけられ、しかし後に否定されていく様子を見て初めて腑に落ちたのであった。世界のどこにも物理法則について記述されておらず、世界に対して人間が何とか食らいつくように打ち立てられてきたものが物理法則なのであると。言語も同様で、野放図に無計画に成長していった言語に対して、無理矢理類型を見出して体系化したものが文法なのであり、使用の一例を示したものが辞書なのであると。

 冒頭の問いもこうした誤解から導き出されるものなのだ。言語というシステムに基づいて書かれた文は誰が読んでも一通りに解釈できるはずである。そうでないのであればそもそも言葉を用いた意思疎通が不可能になってしまう。私が意図して発した言葉を意図した通りに受け取られないようなことがあったならば、それは言語としての役割を果たしていないことになってしまう、といった類の誤解である。恐らくこういった誤解の成立には辞書や文法の存在の影響が大きいと思われる。辞書は言葉が意味の表象であるというような誤解を与え、文法は人間が言語を支配・制御しているかのような誤解を与える。その結果、不可視な「意味」に言葉という外装を与えて他人に届け、他人がそこから「意味」を取り出すことが言語的なやり取りである、というような誤解が生じる。言語をシステムによって整理することによってシステムが言語を生んでいるような誤解が生じてしまう。

 言語が世界を作り出しているといった類の考えを持っている人々に対して、この考え方は非常に魅力的に映るだろう。世界、即ち言語の背後に潜むシステム(究極的には「論理」)を突き詰めていくことで世界を根本から理解することが出来る、というように。

 実は、物理学者たちも似たような幻想を持っている。究極的に必要な物理法則は一つだけで、そこから既知の物理法則のすべてを導き出せるはずである、というものである。しかし同時にそれが殆どの分野で対して役に立たないことも予感している。というのも現実世界はあまりにも多くの粒子によって構成された複雑怪奇なものであり、宇宙を統べるたった一つの法則があったとして、それを直接用いて計算できるのはごく僅かな粒子について程度であり(それも非常に重要だが)、結局既知の(比較的)マクロ的な法則に基づいて推論を進めたほうが早いと思われてしまう。特に応用寄りの物理学者にとって、一つ一つの粒子の運動を精密に把握することは重要ではなく、群体として何が起きているか、どう制御できるかが重要になってくる。誤差はあって当然で、それを含めた予測を立てるのだ。

 言語の、論理の究極を追い求めることが可能かどうかをここでは議論しないが、しかし仮にそれを見つけたからと言って世界に適用していくのは、だから難しいのであろうと思われる。宇宙の誕生の様子を解明することが明日の天気の予測に殆ど寄与しないように、様々な経験をもとに構築された自己を究極的な論理によって解体していくのは非常に難解なように思われる。

 だからきっと、誤差を、誤解を受容しなくてはならないのだ。一つ一つの文について完璧な、統一的な解釈を求めてしまっては一歩も進めない。氷の上で滑るように。そうではなく飽くまで個人的に、各々が自分の文脈(恐らくは「生活形式」と呼ぶべきもの)に照らし合わせて文を理解し、その都度自己の文脈を刷新していくという作業が読書や会話なのであり、そこに執筆者や発話者といった発信者の意図の介在する余地はない。発信者の意図から離れて内在化を進めるという点で、それは「誤解」と呼ぶべきかもしれないが、たとえ発信者の意図が懇切丁寧に説明されていたとしても、それ自身も解釈の対象となり、無限後退へ陥る。この「誤解」を看過することは、人間同士での意思疎通など行われておらず相互的な「誤解」の連続であるというある意味で非常に孤独な考え方にも思えてしまうが、逆に他人との関係がなければ自己の刷新が為されていかないというハートウォーミングな思考でもある。

 「探求」を読んで為されることは、「探求」執筆当時のウィトゲンシュタインの哲学を自己へトレースすることではなく、自身の哲学を読書という作用によって更新することなのだ。だからこそ他人の解釈を知ることが重要になる。他人が解釈を述べるとき、それは当然ウィトゲンシュタインの代弁をしているわけではなく、「探求」を作用させた後の他人自身の哲学を述べているということであり、それは当然自分自身に作用させることが出来る。一冊の本に対して二重三重の味わいが出る行為なのだ。